辻加護の卒業発表から一夜明けて

いくつかのサイトを見て回り、その殆どが感傷的になっているのを目にし、嗚呼自分は変わってしまったのだなぁと、180度違った意味で感傷的に。
しかし開き直って考えてみるに、モーニング娘。のエースであった後藤真希も卒業し、象徴的存在であった安倍なつみの卒業も決まった今となって、辻加護の二人がモーニング娘。であるということにどれだけの意味があるのかと、逆に疑問を感じます。事務所側の思惑として、モーニング娘。というブランドを確立しようとする動きがあり、実際にもそうなりつつあります。モーニング娘。は、今後もその中身を入れ替えつつ存続していくのでしょう。
しかし、僕はモーニング娘。という「入れ物」を応援していたわけでは決してなく、モーニング娘。を構成する個人、たとえば辻希美加護亜依といった愛すべき人物を応援していたのです。モーニング娘。という名前に愛着は感じこそすれ、必要以上にその名前にこだわることは無益なことであると知っています。昨今の大人数化と人気の衰退により、モーニング娘。でいることのメリットが無くなりつつあることも伴い、辻加護モーニング娘。卒業という出来事が、それほど悲観すべきことであるとは思えないのです。むしろ馴れ合いにも似たこの自堕落な小康状態を脱するきっかけとなり、辻加護の二人には以前の輝きを取り戻すきっかけとなって欲しいというのが本音かもしれません。馴れ合いがもたらす、和気藹々とした雰囲気が失われるのではないかとの心配もありますが、このまま緩慢な死を迎えるより幾倍も前向きであると、僕は信じたい。まあモーニング娘。には、これまでの卒業者もがん首揃えた最後のヲタ砦こと「ハロモニ」が依然としてその禍々しい姿を誇っているので、慢性的な馴れ合いが失われた分、より濃厚な要求に応える何かがそこに出現することでしょう。
なんにせよ、過去を懐かしむには僕はまだ若すぎるようで、悲観的ノスタルジックという名の小宇宙に逃げ込むことはできないようです。