ヲタ芸論争 再び

演者のパフォーマンスや歌声を余すことなく鑑賞したい「味わい派」と、声援を送る、踊る(ヲタ芸)などしてライブ感を楽しみたい「盛り上がり派」。大雑把に分けてハロプロコンサートに足を運ぶファンにはこの二つの傾向があり、互いに相容れない関係にある(らしい)。というか、一方的に敵愾心を抱いているのは、両者が同時に存在した場合、必然的に割を食う立場にある「味わい派」の方。「盛り上がり派」としては「味わい派」が何人居ても気にならないが、ノイズに対して神経質な「味わい派」にとって「盛り上がり派」の存在はひとりであっても許容できない。だから、「味わい派」としては何としてでも「盛り上がり派」を排除したい訳だ。
他人に迷惑をかけてはいけないとする観点から言えば、「盛り上がり派」がわきまえるべきだとする「味わい派」の主張に僕も賛成する。しかしそれは一般論としてなので、個々の事例に関してはその都度、検討する必要がある。ハロコンという特殊な状況で、「味わい派」の定める迷惑行為規定は妥当なものであるのかどうか。「盛り上がり派」を追放すればより良いコンサートになるのかどうか。改めて考え直す必要がある。
その糸口として、コンサート様式の比較からの類推が適切であると思う。まずクラシックコンサート。これは静聴するものだ。素晴らしい演奏で気分が高揚したからいって、騒いでしまっては咎められることとなる。一方、ロックコンサートに出掛け、演奏が聴こえないので騒ぐのを止めてくれと言ったところで、誰が相手にするだろうか。音楽の楽しみ方に決まりはない。リズムに乗って騒いでもいいし、メロディの美しさを静かに味わってもいい。各自、思い思いのやり方で楽しめばいい。ただし、大勢が会するコンサートではその様式ごとに暗黙の了解がある。クラシックコンサートで騒ぐと怒られる、ロックコンサートで純粋に音楽のみを楽しむことは難しい、などなど。こういった暗黙の了解に同意できない者が参加しても、不本意な結果となるか、周囲と衝突して不愉快な気分にさせられるだけだろう。
「クラシック度:10−a」「ロック度:a」(10≧a≧0)と、便宜上、各コンサートをこのようなこの角度でもって切り取るとき、ハロコンにはどのような数値が割り当てられるのだろうか。「クラシック度」が高かった場合、「味わい派」の主張が暗黙の了解と合致する。逆に「ロック度」が高かった場合、「盛り上がり派」の主張(振る舞い?)が説得力を帯びることになるのだが、さて?
考えるまでもない。曲中に合いの手を要求し、観客を煽って反応を引き出すハロコンは、演者のパフォーマンスを純粋に楽しむ環境にない。意図的にノイズを招き入れているのだから、ハロコンに割り当てられるaの値は限りなく10に近くなる。「ロック度:10」それはつまり、観客としてハロコンに望む姿勢は、ロックコンサートの場合とさほど変わらないことになる。そして仮に、ハロコンでクラシックコンサートよろしく観客が静聴したらどうなるか。恐らく、製作側はコンサート演出に失敗したと認識するに違いない(→「クラシック度:0」)。


製作側がヲタ芸をどこまで容認するかは分からない。だがそれは程度の問題であって、行儀の良さと熱狂とを天秤にかけたなら、ハロコンは熱狂を取る。「味わい派」と「盛り上がり派」のどちらを選ぶかと言えば、「盛り上がり派」を選ぶ。ハロコンの様式、演出傾向から逆算して考えると、羽目を外して熱狂する観客でなければハロコンは楽しめない、そういうことになる。したがって、「味わい派」の「盛り上がり派」への非難は、ロックコンサートに出掛け、騒ぐのを止めてくれ、マナーを守ってくれと言っているに等しく、的外れなものである。ハロコンの方向性の是非はここでは論じない。ここで指摘したいのは、「味わい派」の主張は常識論として正しいが、残念ながらハロコンにおいてそれは通用しないということだ。

結びつきと盛り上がり

ところで、僕は一度だけ出掛けてすぐハロコンに見切りをつけたが、その理由のひとつに客煽りがある。歌手が観客(ファン)との結びつきを求めて行った自然発生的行為。詳しいことは分からないが、それが煽りの原点であると僕は推測している。しかしハロコンではまるで振り付けの一部のように機械的に煽りが繰り返されている。更にあきれることに、『アイドルをさがせ!』DVDにはモーニング娘。に客煽りの指導をするつんくの姿が収録されていて、全く悪びれるところがない。これはつまり、つんくを中心とするあちら側は「客煽り」を単なるテクニックとしか認識していないということなのだろう。
本来は歌手と観客(ファン)との繋がり、つまり精神的一体感を経て結果として盛り上がっていたはずが、いつしかそれは形骸化し本質は置き去りにされ、「盛り上がる」という結果を得るための手段、「客煽り」と成り下がってしまった。そう考えると、演者との繋がりを求めず、自分勝手にヲタ芸に興じる者が現れたことは不思議でも何でもない。先に繋がりを放棄したのは演者の方なのだから。MCに台本があるとすれば、それも同じことだ。