ヲチスレ雑感

まず、ヲチスレは誰もが認める「悪者」なので、気を使う必要がなく自由に批判できて楽だった、ということがある。ネット近所付き合いの観点から、または書き手としてのキャラ形成や立ち回りの都合上、ネット上とはいえ身元がはっきりしている人に対しては気を使う。ファンサイトとして純粋主義を標榜し、「いい人」としてアイドルへの純愛を根幹に据えているサイトであればなお更だろう。しかし、丁寧に理路整然と反論なり説明をしたところで何もはじまらないこともある。批判それ自体を目的とする者を相手とした場合だ。私事で恐縮だが、以前、シャッフルユニットについて書いた文章に対し、事細かい指摘を受けたことがあった。自分が贔屓にしているメンバーにはどんな批判も許さない、というのであれば、それがどんなに理不尽なものであったとしても、できうる限り無下に扱ったりはしない。そのような気持ちは理解できるからだ。しかしそういった事情が全く汲み取れず、指摘が本筋とは関係ない部分にまで及んだり、そもそも批判なのか見解の相違の表明なのかよく分からない書き込みに対しては、いつまでも寛容ではいられない。…そう、いられないのだが、たとえ身元がはっきりとしない書き込みであったとしても、ためにする批判にはお答えできませんとはなかなか言いにくい。まして書き込み内容を飛び越え、書き手自身を批評、分析するまでには踏み込めないのが実情だと思う。意識的であれ無意識的であれ、多くの人が抜本的な解決策を用いることができないでいる。ストレスが溜まるわけだ。だが、相手がヲチスレならそんな遠慮は無用だ。ヲチスレ側は匿名の気軽さを駆ってストレスなく不満をぶつけることができたのだろうが、それはこちら側でも同じことがいえた、ということだ。
匿名に由来する気軽さと無責任は2chの特色であり武器であることは間違いないだろう。ただし、欠点もある。こと論戦に際しては、気軽さと無責任はむしろ不利に働く。ひとりひとりが好き勝手に発言していては、一貫性のある論陣など張れるわけがない。この場合、ヲチスレ側の採るべき最良の戦略とは、気軽さと無責任を貫くことにあった。それを相手からの反論を受け、行き当たりばったりの論争を展開してしまってどうするのだろう。ヲチスレ(2ちゃんねらー)が手がつけれないのは、その徹底した野次馬感覚にある。高みの見物を決め込み、対象を小馬鹿にして楽しみたいだけの連中に、何を言っても無駄だ。真面目に反論したところで更なる笑いのネタにされるのが落ちだろう。だが、聞こえよがしの皮肉を言うだけでは満足できず、ヲチスレ住人が直接理屈を用いて相手を言い負かしたいと考えたならどうなるか。相手を有効射程に捉えるには高みを降りるしかない。それは同時に、相手の射程内に身を晒すことでもある。
匿名による発信者の保護効果についても、もしかするとヲチスレ住人は匿名を全てをはね返す絶対防御か何かとして勘違いしているのかもしれない。だとしたら、相当甘い認識だと思う。匿名とは発信者の身元を特定し難くするだけで、自分に向けられた反論なり非難を無効化する効力があるわけではない。なぜ匿名であるはずの2chで「煽り/煽られ」が日常的に行われているのか。そのことを考えてみるといい。それが匿名であってもなくても、自分の書き込みに向けられた反論なり非難に対し平静でいることは、思いのほか難しい。
気軽さに任せて適当なことを書き、逆批難されたくはないと思う。また逆批難を想定し、文章作成に労力を費やしたら費やしたで、今度はその労力の分だけ手放すのが惜しくなる。いずれにしても、何か(誰か)を批判するとき、僕は2chではなく自分のサイトに書き込む。万全を期したからといって完全に誤りを無くすことはできないし、下手の考え休むに似たりということもある。だがそれでも、自分に向けられた好評と悪評、そのどちらであっても、気軽でも無責任でもいられない。そして当たり前のことだが、実名で論争に勝てない相手には匿名を用いても勝てない。だから消去法的に考えて、ヲチスレを利用しないという選択肢を僕は採る。


次に考えてみたいのは、ヲチスレの行き先について。以前はどうか分からないが、現在のヲチスレには公開処刑場としてモーヲタの利益や体面を脅かすもの、または単に感情的に受け入れ難い意見をモーヲタの論理で一方的に断罪する側面が強く現れている。当サイトのアドレスが書き込まれたのもそういうことなのだろう。「愛すべきモーヲタハロヲタ)達をまったりとヲチしませう」なんて穏やかなもんじゃない。
一連の出来事を纏めると、「ヲチスレにアドレスが書き込まれる」→(ヲチスレと当サイトの間で口論勃発)→「モ板(狼)にもアドレスが書き込まれる」、という流れを辿ったが、そもそも嫌がらせをしたいだけならはじめからモ板(狼)に書き込めば良かったはず。享楽的で節度を弁えないモ板(狼)に投げ込んだ方が、与えるダメージは大きいと普通は考える。しかし、嫌がらせだけでは物足りないと考えた場合、どうするか。何からの方法で自らの立場の正当化を図り、まるで世の中全てが味方であるかのような有無を言わせぬ論調で、相手を完膚なきまでに叩きのめそうとするだろう。相手に敗北感を植えつけることでより強いカタルシスを得ようという算段だ。そういった流れを形成するには、常に半笑いのモ板(狼)住人よりも、モーヲタとして強い意識を持ち、深刻ぶった顔をしたヲチスレ住人が適役だったと。(実際ヲチスレ住人が用いたのは、彼らだけに通用する論理、正当性を以って相手を処断するという力技だった)。モ板(狼)に頼って実質的な損害を与えるよりも、ヲチスレに頼って精神的な面で上手に立つことを選んだわけだ。
とはいえ、耐性と心構えの両方、またどちらか一方を備えていれば、ヲチスレはそれほど怖い相手ではない(2ちゃんねらー全てがそうであるとは限らないが、取り合えずヲチスレ住人はくみし易い)。ただ面倒事を嫌がって必要以上に発言に気をつけたり、特定の事柄への言及を控えたりする人々が出ることは避けられないと思う。お勧めサイトの紹介にしても、「自虐」や「お笑い」を中心とするもの、つまりヲチスレ住人の繊細な自尊心を刺激しないものに限られてしまうのではないか。
ガス抜きとしての利用はあってもよいとは思うが、その反面で、モーヲタサイトの言論の自由が抑圧・制限され、定番(大手)であったり傾向として無難なサイト以外は話題にできないのであれば、何のためのヲチスレなのか。モーヲタサイト群がつまらなくなったとか先細りとか書き込まれることがあるが、その責任の一端は確実にヲチスレにあるような気がするが。いずれにしても、「ヲチ」よりも「ガス抜き」の割合が大きくなったことに原因があるとみている。


最後に誤解のないようもう一度断っておくが、僕はヲチスレを否定する立場を採らない。たとえガス抜きであったとしても、全てを了解した上でヲチスレを利用するのであれば別に構わないと思う。というか、たまにではあるが2chを利用する者として、その屋台骨である匿名性を否定することはできないだろう。匿名には暗黒面があることを重々承知してその利潤にあずかっている。それを忘れたかのように、いざ自分の不利益となった途端に匿名を拒否するのであれば、厚顔が過ぎると思うので。…とは言っても、ヲチスレとは比べ物にならないほど狡猾で抜け目のない匿名を相手にしたなら、綺麗事を吐く余裕もないほど追い詰められてしまうかもしれないが。

雑記

長いこと更新が途絶えていた理由として、匿名という得体の知れない相手との論争で疲弊したとか、悪意にさらされて更新意欲を失ったとか、ヲチスレとのやり取りを発端とする諸々の事柄が影響したと思われていたかもしれない。それは半分だけ当たっている。ヲチスレの圧力に屈したわけでは決してない。ヲチスレや周囲の目を過剰に意識し自分のペースを乱しては馬鹿らしいと過剰に意識し、結果的に自分のペースを乱しただけだ。裏の裏は表だったとでも言おうか。まあそんな感じだ。
思ったのは、筋の通った真っ当な反論にならともかく、無茶苦茶な言い掛かりにあっさり屈してしまうのなら、これまで通り好き勝手書いていく資格は僕にはないということだ。だったらはじめからヲチスレや読み手に媚びて、当たり障りのないことを書いていればいい。それが分相応ということになる。自らの言動に対しどう責任を負うのか、そして物書きとしての矜持とは。これは踏ん張りどころだと思った。
目指すものは、ヲチスレ住人などに付け入る隙を一分も与えない強固な論理と、それでいて、ヲタ芸だけでなく一般的な全ての事柄へと、ジャンルの枠に囚われない広がりと柔軟性を併せ持つ非の打ち所のない文章の構築。意気込み勇んで取り掛かり、これまで培ってきた英知と識見を集大成した大作を完成させるべく、かなりの時間を費やしたのだが…。結果をあらためて書くまでもない。普通に無理だった。凡人の英知と識見を総動員したところで高が知れていた。そもそも僕は物書きですらなかった。これは踏ん張りすぎたと思った。自分のペースを乱しては馬鹿らしいと気がつき、のんびりのんびりやっている内に現在に至る、と。


与太話はそれくらいにして。既に半年近くの時間が経過しているが、今だからこそ当時のやり取りを冷静に振り返ることができるかもしれない。以下、ヲチスレ感想を感情的にならず、できるだけ客観的に羅列していきたい。

ヲタ芸論争 再び

演者のパフォーマンスや歌声を余すことなく鑑賞したい「味わい派」と、声援を送る、踊る(ヲタ芸)などしてライブ感を楽しみたい「盛り上がり派」。大雑把に分けてハロプロコンサートに足を運ぶファンにはこの二つの傾向があり、互いに相容れない関係にある(らしい)。というか、一方的に敵愾心を抱いているのは、両者が同時に存在した場合、必然的に割を食う立場にある「味わい派」の方。「盛り上がり派」としては「味わい派」が何人居ても気にならないが、ノイズに対して神経質な「味わい派」にとって「盛り上がり派」の存在はひとりであっても許容できない。だから、「味わい派」としては何としてでも「盛り上がり派」を排除したい訳だ。
他人に迷惑をかけてはいけないとする観点から言えば、「盛り上がり派」がわきまえるべきだとする「味わい派」の主張に僕も賛成する。しかしそれは一般論としてなので、個々の事例に関してはその都度、検討する必要がある。ハロコンという特殊な状況で、「味わい派」の定める迷惑行為規定は妥当なものであるのかどうか。「盛り上がり派」を追放すればより良いコンサートになるのかどうか。改めて考え直す必要がある。
その糸口として、コンサート様式の比較からの類推が適切であると思う。まずクラシックコンサート。これは静聴するものだ。素晴らしい演奏で気分が高揚したからいって、騒いでしまっては咎められることとなる。一方、ロックコンサートに出掛け、演奏が聴こえないので騒ぐのを止めてくれと言ったところで、誰が相手にするだろうか。音楽の楽しみ方に決まりはない。リズムに乗って騒いでもいいし、メロディの美しさを静かに味わってもいい。各自、思い思いのやり方で楽しめばいい。ただし、大勢が会するコンサートではその様式ごとに暗黙の了解がある。クラシックコンサートで騒ぐと怒られる、ロックコンサートで純粋に音楽のみを楽しむことは難しい、などなど。こういった暗黙の了解に同意できない者が参加しても、不本意な結果となるか、周囲と衝突して不愉快な気分にさせられるだけだろう。
「クラシック度:10−a」「ロック度:a」(10≧a≧0)と、便宜上、各コンサートをこのようなこの角度でもって切り取るとき、ハロコンにはどのような数値が割り当てられるのだろうか。「クラシック度」が高かった場合、「味わい派」の主張が暗黙の了解と合致する。逆に「ロック度」が高かった場合、「盛り上がり派」の主張(振る舞い?)が説得力を帯びることになるのだが、さて?
考えるまでもない。曲中に合いの手を要求し、観客を煽って反応を引き出すハロコンは、演者のパフォーマンスを純粋に楽しむ環境にない。意図的にノイズを招き入れているのだから、ハロコンに割り当てられるaの値は限りなく10に近くなる。「ロック度:10」それはつまり、観客としてハロコンに望む姿勢は、ロックコンサートの場合とさほど変わらないことになる。そして仮に、ハロコンでクラシックコンサートよろしく観客が静聴したらどうなるか。恐らく、製作側はコンサート演出に失敗したと認識するに違いない(→「クラシック度:0」)。


製作側がヲタ芸をどこまで容認するかは分からない。だがそれは程度の問題であって、行儀の良さと熱狂とを天秤にかけたなら、ハロコンは熱狂を取る。「味わい派」と「盛り上がり派」のどちらを選ぶかと言えば、「盛り上がり派」を選ぶ。ハロコンの様式、演出傾向から逆算して考えると、羽目を外して熱狂する観客でなければハロコンは楽しめない、そういうことになる。したがって、「味わい派」の「盛り上がり派」への非難は、ロックコンサートに出掛け、騒ぐのを止めてくれ、マナーを守ってくれと言っているに等しく、的外れなものである。ハロコンの方向性の是非はここでは論じない。ここで指摘したいのは、「味わい派」の主張は常識論として正しいが、残念ながらハロコンにおいてそれは通用しないということだ。

結びつきと盛り上がり

ところで、僕は一度だけ出掛けてすぐハロコンに見切りをつけたが、その理由のひとつに客煽りがある。歌手が観客(ファン)との結びつきを求めて行った自然発生的行為。詳しいことは分からないが、それが煽りの原点であると僕は推測している。しかしハロコンではまるで振り付けの一部のように機械的に煽りが繰り返されている。更にあきれることに、『アイドルをさがせ!』DVDにはモーニング娘。に客煽りの指導をするつんくの姿が収録されていて、全く悪びれるところがない。これはつまり、つんくを中心とするあちら側は「客煽り」を単なるテクニックとしか認識していないということなのだろう。
本来は歌手と観客(ファン)との繋がり、つまり精神的一体感を経て結果として盛り上がっていたはずが、いつしかそれは形骸化し本質は置き去りにされ、「盛り上がる」という結果を得るための手段、「客煽り」と成り下がってしまった。そう考えると、演者との繋がりを求めず、自分勝手にヲタ芸に興じる者が現れたことは不思議でも何でもない。先に繋がりを放棄したのは演者の方なのだから。MCに台本があるとすれば、それも同じことだ。

モーヲタテキサイヲチ

http://ex9.2ch.net/test/read.cgi/net/1119897114/435-n
前回の更新についてあまりに無茶苦茶な言及が。どのように無茶苦茶であるのかを指摘していく。


無茶苦茶その一。僕がコンサートに行ったことがあるかどうかで騒いでいるが、はっきり言って見当はずれだと思う。たとえコンサートへ行ったことがあっても、ヲタ芸に無頓着な人だっている。逆にコンサートへ行ったことがなくとも、ヲタ芸に対して人一倍敏感な人だっている。もしヲタ芸を語るにあたって何か資格が必要なのだとしたら、それは現場に足を踏み入れたという受動的・感覚的なものではなく、ヲタ芸について関心があるのかどうかという積極的・意識的なものだと僕は考える。僕はコンサートに行ったことはないが、「ヲタ芸論争」とやらを読んでヲタ芸に関心を持った。知り得た情報を僕なりに整理し、これはコンサートマナーの問題であるとの見解を示した。反論するなら見解部分についてすべきだ。
なまじ当事者であるがために客観的な視点が持てなくなることもある。事実、この論争はそうなっているように見える。そもそも論争と銘打っているのなら、第三者の意見を聞き入れる余裕くらいあってもいいのではないかと思う。
TKさんに謝ったのは紛らわしい書き方をしていたからで、前言を翻したけではない。昔、知り合いからチケットが回ってきたので一回だけ出掛けたことがある。当時、ヲタ芸についてはまったくの無関心。二階席だったことが幸いしたのか、ヲタ芸とは無縁でいることが出来た。しかし演者も豆粒にしか見えなかった。仕方が無いのでステージ横に設置された巨大モニターを観ていた。家のテレビで観た方がマシだと思った。コンサートには行ったことのないようなものだ。

456 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2005/07/19(火) 14:00:03 id:f5WNqOYI
>>454
言いたいことは理解してる。しかしヲタ芸批判の根幹は自己肯定や スケープゴート云々ではなくもっともっと単純に 現場で受けた迷惑に対する怒りだろう。


そのシンプルな本質をつかんでないから理屈は整っていても 現状にそぐわずに頓珍漢な内容だということ。

この書き込みをした人物は、自分が何を言っているのか自覚しているのだろうか。これでは、ヲタ芸批判者が公正な視点を持ち合わせていないと暗に認めてしまっているようなものだ。更に不思議なことに、この書き込みへの同意が示されていることからも、456がヲタ芸批判者の心情代弁者として異論はなさそうだ。この論争の趣旨は、たとえそれが建前だけのものだとしても、モーヲタの自浄作用を促すことにあるのだとばかり思っていたのだが。結局鬱憤晴らしだったということなのだろうか。反論のため自らの正当性をかなぐり捨ててどうするのか。これらヲタ芸騒動は大義も理念も不在とする単なる罵り合いだったと告白しているに等しい。よって無茶苦茶その二。

453 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:2005/07/19(火) 04:36:56 id:xI3DSos+
大勢で群れ固まり汚い汁を撒き散らしながらヲタ芸に興じる者を見下し、 写真の貼りこれた特攻服を着ているようなキモヲタを軽蔑することで、 自分がモーヲタであることの言い訳を作っている部分は確かにある。 あんなに自分は汚くないし程度の低いこともしない。 蛮族の設定と選民思想の固着。 同族嫌悪の典型。 無視していたら良いのに、議論しようと躍起になるなんて愚の骨頂。


てことを書きたかったんじゃない? 稚拙でだらだらした文のために幾分ぼやけているけど、 着眼点は悪くないと思う。

無視していたら良いのに?僕は議論が成り立っていないと言っているのだが。人の文章をさっぱり理解していないどころか不当に水増ししている点で無茶苦茶だ。しかもその水増しをした内容からこの書き込みをした人物のヲタ観が漏れ出している。汚いとか程度が低いとか悪罵に近い。僕が否定するのはまさにこのような人物だ。自分が否定されていると感じているからこそ、このように怨みがましい書き込みとなっているのだろう。


これら愚劣な反論が正しいとして、まず現場で受けた迷惑に対する怒りが先にあるのだとするなら、ではそういった感情とどのように向き合っていくのか。またどのように議論を深化させ妥協点を探っていくべきなのか。その辺の見解を是非とも聞かせて欲しいものだ。

ヲタ芸論争

http://eririn15.hp.infoseek.co.jp/
ヲタ芸論争はこれまでも何度か目にしてきたが、論争とは名ばかりで、いつも一方的にヲタ芸とそれを行うファンを批難しているだけに思える。
はじめに断っておくが、問題の本質はヲタ芸などにはないと僕は考えている。例によってファンとしての体面や自尊心を満足させるため、スケープゴートとして世間の蔑視を引き受ける「悪いファン」を仕立て上げているだけではないのか。だから「悪いファン」を批難することに終始しているのだろう。
ルサンチマンの裏返し的な嫌悪感情を排してヲタ芸を認めれば、問題の解決は容易だ。互いに迷惑とならないコンサートの鑑賞方法、盛り上がり方についての取り決めを作ればいい。それが現実的な解決策だと思う。これは逆に言えば、ヲタ芸廃絶論は現実的ではないということでもある。ヲタ芸とは盛り上がりのひとつの形だ。とすれば、ヲタ芸をやめろと言うのは、盛り上がるなと言っているに等しい。クラシックコンサートではないのだから、それは通らない。正しくは、他人に迷惑をかけるな、と言うべきだと思う。コンサートマナーとして処理すべき問題を、皆で寄ってたかってヲタとしての自己意識と結びつけ、ややこしくしている。
ヲタ芸を行うことで、コンサートに来ている一般客がモーヲタ、ひいてはモーニング娘。に対する印象を悪くする、との指摘もあるようだが、その心配はファンの領分を越えている。この指摘を突き詰めれば、モーヲタと一般客、どちらを優遇するのかという、二者択一に行き着くだろう。金落としはいいが世間受けの悪いモーヲタを採るのか、その逆の一般客を採るのか。広く浅くか、狭く深くか。それは事務所側が売り出し戦略として顧慮すべき問題なのではないか。モーニング娘。という商品のイメージを良くしたいと考えるならば、たとえば極論な話、コンサートの八割を家族席にするとか、入場者を中学生以下または女性に限定するとか、様々な手段が考えられる。しかしそうしないのは、モーヲタへの誠意なのか金勘定なのか、何か思うところがあるからだろう。いずれにしても、一介のモーヲタが背負う問題ではない。


ヲタ芸論争にはファン側と事務所側、それぞれ別個に解決すべき問題が混在している。それを気づき難くしているひとつの原因として、ファンによるファンへの見下しが挙げられると思う。繰り返しになるが、世間のヲタ蔑視の風潮をヲタ芸に求めようとする心情が、無意識の内にヲタ芸を行うファンをスケープゴートに仕立て上げているのではないだろうか。ヲタが世間に認められないのは性的な欲求に繋がるもの、またはそれを連想させるものをタブーとする社会通念によるところが大きいと思う。それに比べれば、ヲタ芸による悪影響なんて高が知れている。コンサートに出かけることない僕は、こうした騒動が起きるまでヲタ芸が何たるものかさっぱり知らなかった。
ファン側と事務所側、それぞれ別個に解決すべき問題、とは書いたものの、演者であるモーニング娘。が客煽りを控えることで盛り上がりを抑えれば、万事上手くいくかもしれないと思ったりもする。その場合、ファン側に出来ることは何もないことになってしまうのか。

行列のできる矢口

「汚れ」とは芸能の暗黒面。正規の芸に比べて習得し易く、不安と恐れの中にある芸能人が陥り易い。はるか昔、汚れ芸人(シス)はジェダイによって駆逐されたはずだったが、明石家・島田両マスター、ロンドンブーツ1号・2号の活躍で復権を果す。芸能界にダークサイドのとばりが降りてくる…。
「元モー娘。矢口は暗黒面に堕ちた」


今更だが、『行列のできる法律相談所』の話。そこには自らのスキャンダルを悪びれることなくネタにする矢口がいたとか。僕はその番組を観ていないのだが、モーニング娘。時代から矢口は暗黒面に片足を突っ込んでいたようなものだった。矢口の信奉する「モーニング娘。魂」とは、汚れすら辞さない確固たる姿勢を指していた。そんな矢口と現在の「汚れ」を奨励するバラエティ番組を合わせたなら、十分あり得る事態のように思える。モーニング娘。を去り、芸能界での基盤を失った矢口。新たな足場作りに腐心する彼女を暗黒面に誘い込むことは、赤子の手を捻るより容易かったことだろう。


弁護するつもりはあまりないのだけど、近頃のバラエティ番組の傾向を考えると、矢口は被害者なのではないかと思えてくる。あびる優の窃盗告白事件にも、亀井のフレッツ事件にも同じことが言えるのではないか。
あびる優と亀井、この二つの事件について一応説明しておく。以前深夜番組にてあびる優が自らが過去に犯した窃盗行為を語ったところ、予想を遥かに超えて批難が集中し身動きが取れなくなる事件があった。フレッツ配信のモーニング娘。動画にて、田中に接する亀井の態度がいじめではないかと問題となったことがあった。あびる優は素行不良であることを売りとして、亀井は小悪魔的で奔放な無邪気さを自らの性格に取り入れることで人気を集めていた。とするなら、この二つの事例に通底するのは、寄せられる期待に応えるようとする余り、社会の一員として弁えるべき事柄を見失ったということなのだろう。あびる優の事例に関しては、事前に番組側で適切かどうかの判断を下すべきだったとの指摘もあったようだが、論外だ。それを望んでいたのは番組側なのだから、できるはずがない。調子に乗ってしまったあびる優にも非はあるが、責任は言外にそそのかした番組側にあるのではないかと思う。


現在、テレビを中心に猛威を振るっているのが「笑い」という名のイデオロギーで、これはほぼ最強のイデオロギーと言っていいだろう。笑いの名の下に人を、もしくは自分を辱めることあげつらうこと差別すること、その他諸々の人格批判が正当化される。最強たる所以は、そういった非人道的行為に対する批判さえ笑いとして取り込むことが可能だということだ。そのイデオロギーが通用する範囲内では全く手がつけられない。
通常、笑いの論理と社会規範とでは、社会規範が上位に位置づけられている。下位にある笑いの論理は上位にある社会規範を超えることはない。しかし、「笑い」という名のイデオロギーに毒された人間はその例ではない。しばしば笑いの論理を優先させて世間の顰蹙を買う。今回はそれが矢口だっただけの話だろう。


当たり前のことだが、芸人は芸によって、アイドルはアイドル的な振る舞いによって身を立てるべきなのだ。そこに横槍を入れる者がいる。鼻先に餌をちらつかせて暗黒面へと誘惑する。アイドルや芸人として、先の見えない努力を積み重ねていくよりも、刹那的な快楽に身を委ねた方が楽に決まっている。しかし、たとえ負のフォースによって注目を集めたとしても、決して何かを成し遂げたわけではない。殆どの場合、むき出しの自己顕示欲を面白がられているだけだ。番組の一時的な盛り上がりに利用され、残り少ない信頼を失っているようでは目も当てられない。
だから本業を第一に考え、暗黒面への誘惑に打ち勝つ強い意志を、とかなんとか書きたいところなのだが、モーニング娘。を脱退した今、矢口の本業とは一体何なのかよく分からない。モーニング娘。が暗黒面に頭を半分突っ込みながらも今までやってこれたのは、アイドル歌手として活躍の場があったからだと思う。コンサートであれが出来てあれが出来なくて…。メンバーたちがよく口にすることだ。そういった支柱なくして、ダークサイドのとばりに包まれたこの芸能界で生き抜くことは難しかっただろう。卒業生の中で最も暗黒面に陥り易いとされる石川には、美勇伝という支柱が新たに与えられている。各バラエティ番組に出演ラッシュをかけるよりも、矢口にもそういった配慮が必要だったと悔やまれる。もちろん結果論ではあるのだけど。