岡女。合唱部

ヨモギダ少年愚連隊』内のいちコーナーとして製作された『岡女。合唱部』。ヨモギダ本編では編集上の都合か数分だけのお目見えに甘んじた。本来ならばお蔵入りのところを何故か本編を離れて別途放送。『岡女。合唱部』完全版ともいえるのが本放送。先日の『めちゃイケ』放送時間の約半分を使って行われた。
間口の狭さに唖然としたというのが率直な感想。あまりにもマニアック。個人的にはパロディこそが究極のお笑いだと信じて止まないが、それは受け手が元ネタを熟知しているという前提があってこそ。壁を乗り越えなければ真価が発揮されない諸刃の剣。恥ずかしながらお笑いへの造詣もキダ・タロー作品への馴染みも浅い自分としては、細部まで味わい尽くすことが出来なかったというのが正直なところ。かろうじて「モーニング娘。がコントを演じている」という部分だけは楽しむことが出来た。
しかしそれすら「モーニング娘。ファンである」という前提に行き着くので困ったもの。そもそも本来であればお蔵入りするはずの作品を改めて放送し直すという番組側の姿勢はどうなのか。モーニング娘。ファンである僕としては大歓迎なのだが、いちいちそんなことをしていたら収集が付かないどころか反則技ですらある。過密スケジュールの合間を縫って出演を取り付けたモーニング娘。(とつんくの)コント。むざむざお蔵入りさせるのは忍びなかったということか。しかしこれ、本編を通り越し過ぎて明後日の方向を向きすぎてはいないか。『ヨモギダ少年愚連隊』で使用することを口実に、まんまと独立した「(ネゴシックス(?)を絡めた)モーニング娘。コント」を作り上げたというのが真相なのではないかと疑いたくなる。以前よりフジテレビはモーニング娘。関連映像の廃物利用に長けているが、ファンの裾野を広げること(一般受け)を放棄してディープなファンだけを狙い撃ちする、ある意味退路を閉ざすような企画はハロモニ。だけで十分だと思う。
高橋は能天気な合唱部部長役、藤本は反抗的な態度を採る問題児、吉澤はやや上滑り気味の陽気な仕切り役(?)、加護は関西弁、辻は加護に便乗したなんちゃって関西弁使い、石川に至っては若手芸人(?)ネゴシックス(?)のネタを絶叫するという豪快なキャラ設定。それ以外のメンバーは『新春かくし芸』などから受け継がれる非協調的な態度(仏頂面)。石川と辻を除いてピックアップされた各メンバーのキャラ設定は、(思い過ごしかもしれないが)2チャンネルの影響が色濃く窺えるステレオタイプ。ファンの需要に的確に応えているともいえるが、在り来たりでつまらないともいえる(何故藤本はハロモニ。を離れると例外なく反抗的なキャラ付けになるのか?)。モーニング娘。はその性質と伝統上、番組などで与えられたキャラを取り込むなり自ら血中濃度を高めるなどして無理にでも特異なキャラに特化しようとする傾向があるだけに、キャラを与える側の番組で既知のキャラを使いまわすだけでは少々物足りなく感じる。当番組は以前、小川に貧乏キャラを見出した(?)だけに。
穿った見方をすれば、高橋の「2×8 (ツーエイト)」ネタ再登場には意図的なものを感じてならない。ネタの根本には『岡女。体育祭(クソ女)』での「岡村−高橋」の険悪なやり取りがある(元ネタ知らなければ意味不明のネタだろう)。『岡女。体育祭(クソ女)』での岡村の振る舞いが純粋に「笑い」を志向したのものであったかは甚だ疑問だが(個人的には単に高橋へ苛立っているだけに見えた)、今回わざとらしくも改めて「笑い」として回収しているところを見ると、少なくとも対外的には失敗だったと思われる。修繕の意味合いか。内輪的。
オチ要員としての辻。メイクミラクルを繰り出す彼女の性質を考慮しての「敢えて」の配役であり、『新春かくし芸』の*1二の轍を踏まぬための演出だった。多数のメンバーの中で一瞬で場を和ませることが出来る才能を持つのは辻だけなのだ!辻を囲むメンバーが朗らかな表情を見せるなか、『岡女。合唱部』は静かに幕を閉じる。・・・と芸術的とも思える流れでの幕引きを期待したものの、この後なし崩し的に行われた石川扮する奇人のテンション芸によって折角付いたオチが台無し。製作側としては、CM明けに素のメンバーの姿を見せることによってオチを付けたかったようだが、同様のオチなら突発的に舞い降りた「辻オチ」を活かす機転と柔軟性があっても良かったのではないかと思う。

*1:一部の視聴者に「ネタにマジレス」されたこと