仔犬のワルツ 第四話

水無月律子ペア紹介の回。例によって精神病院にて母親と面談。水無月兄弟は皆「母親から愛情を得れない可哀相な自分」にばかり執心していて、夫から愛されずにいた母親の心中を誰も察してあげることができなかった。母親を理解して愛情を向けることが出来たのは鍵二だけだったと。被害者意識の強い他の兄弟たちとは一変、自分たち兄弟こそが加害者だと語る律子。しかしパートナーのノッティーが母親から心中を強いられた挙句、自分だけが生還した過去を持ち、「母親を見殺しにした」という律子とよく似たトラウマを抱えている。とすれば彼同様、それは律子個人が抱える加害妄想でしかないと考えるのが自然なのか。事の真相は、各兄弟の思い込みとは別のところにあるのだろう。
律子とノッティー。二人が心を寄せ合う様はどう見ても傷の舐めあいにしか見えないのだが、それこそが当ドラマが描く「弱者描写」の真骨頂のひとつなのだろう。絶対強者として振舞ってきた学長でさえも、実は鍵二の亡霊(脅迫観念?)に取り付かれた弱者でしかなかった。ドラマの終わり際、満たされない心を抱える芯也と葉音が、互いを慰め合うかのように手を繋ぎ寄り添いながら連弾する場面も象徴的だ。パトカーのサイレンが鳴り響くのをよそに、二人の奏でる音色が穏やかに響き渡る。まるで世間の喧騒とは無縁の場所に二人の世界が存在しているかのような印象を受ける。それがひとときの安らぎでしかないことが(次回予告で芯也が容疑者として連れ去られる)余計に感傷を誘う。果敢なさ故のおもむきというか。心の弱い部分に訴えかけるように作り込まれているのだろう。ピアノの音色と共に心に染み渡ってくる何かを感じて止まない自分は、まんまとドラマに惹き込まれてしまっているに違いない。とはいえ、ある意味人間の弱さを肯定し美化しているとも受け取ることの出来るこのようなドラマに無防備に入り込むことは危険なので、ある程度の距離をおいて観ようとは思っているが。
学長は鍵二を「再生」させると言う。鍵二という才能損失の補填とはまた違った意味合いに聞こえる。いつも上手い具合に光が当たり、鍵二の顔の部分だけがはっきりしない家族写真。相続争いから降りようとする芯也を、自らの不利益にもかかわらず相続争いを続けるように説得する器一の不可解な行動。芯也が鍵二と入れ替わりに養子として迎えられた事実。etc...。以上のことを取り止めもなく考えていると、「芯也=鍵二」なのではないかという少々大胆な仮説が頭をよぎる。「殺した」というのは芯也のピアノに対する情熱を奪った(または自らの凶暴性と共に人格「鍵二」を封印した)ことを差す抽象的な表現で、相続争いに関する全ての事柄は芯也をけしかけるために仕組まれた策謀。毎回殺害される仕掛け人の役割は、ピアノに対する情熱が再燃するように芯也を挑発することにあった。穏やかな性格が一変、抑えていた感情を解き放ち、人が変わったかのように凶暴性を露にしはじめた芯也。「神をも恐れぬ悪魔のピアノ(!)」人格である「鍵二」が覚醒する日は近い?ジギル博士とハイド氏みたいな感じで。
蛇足1。スポンサーの意向なのかただのお遊びか、やたらとドラマ内にお菓子が登場。譜三彦がおもむろに「たけのこの里」を食べだした直後、切り替わったCMは「たけのこの里きのこの山」。狙っているのか偶然なのか。
蛇足2。ドラマにしろ本にしろ、物語の内容や真意を正しく理解するためには偏見や先入観を事前に捨て去ることはもちろん、いかに突拍子もなく荒唐無稽なことであっても、否定することなく受け止めていく姿勢が肝心だと思う。はなから冷笑的な視点しか持ち得ないのであれば、何も得るものも感じるものもない。時間の浪費でしかない。悲しい物語を鑑賞するに耐えられないならば仕方がないが、当ドラマに関しては批判と冷笑を取り違えている人が多いように思う。終わってみれば、冷笑的な見方が正しかったということもあり得るかもしれないけど。