HEY!HEY!HEY!

ダウンタウンが加護の髪型と食欲(肥満)について突っ込みを。相手が誰であっても怖気づくことなく、勇猛果敢に突っ込みまくる(主に浜田の)攻めの姿勢は反骨的で観ていて小気味がいい。天才松本の後塵を拝することに甘んじず、独自の突っ込みスタイルを確立して松本に並び出た浜田の負けん気の強さは称賛に値する。現在あちらこちらで目にする突っ込み芸というジャンルの可能性を、全国放送の場ではじめて提示して見せたのは浜田なのではないかと思ったりもするがどうなのだろう。
加護に突っ込みの狙いをつけることは、お笑い芸人として正しい嗅覚の持ち主だと思う。個人的には、加護はモーニング娘。内でも一ニを争うほどに突っ込みどころを満載していると認識していて、その多くは内面と外面とのズレにこそあると密かに確信している。ざっくばらんに言って、意図的なニュアンスを感じさせる不自然な髪型や、アイドルにあるまじきコロコロとした体型といった表面的な部分だけでも十分に目を引く。別段、隠された突っ込みどころを見抜く優れた洞察力や着眼点を有していなくとも、気軽に安易な笑いを生み出すことが出来る対象ではある。しかし何故か、ダウンタウンを除く殆ど芸人によって加護がまるで腫れ物か何かのように扱われ、見て見ぬ振りをされる形で突っ込みが忌避され続けてきた経緯がある。想像するに、たとえ万全を配慮した突っ込み(そこまでしたものが「突っ込み」と呼べるか疑問だが)を用いたとしても、加護の中のセンシティブな部分を土足で踏み荒らす事態を引き起こすのではという不安が、突っ込み芸人たちに二の足を踏ませていたのではないか。
そういった配慮は人として恐らく正しい。しかし芸人の姿勢としてはどうなのか。そもそも自らの自尊心をも切り売りすることさえも辞さないメンバーを有するモーニング娘。に対しては、余計なお世話の範疇を越えて、配慮としての効果を発揮することが出来るかどうかは疑問。しかしかの悪名高き『うたばん』ですら、「肥満」ネタを扱わないという事実を考慮するに、芸能人の処世術としては正しいのだろう。最近の『うたばん』はそういう意味でぬるい番組に成り下がってしまった。
モーニング娘。には伝統として、「肥満」に対する突っ込みが暗黙として禁忌とされ続けている*1経緯があることは間違いなく、そのことが長らくモーニング娘。を見続けてきた僕の中で大きな違和感として膨れ上がっている。なりふり構わない戦略を採るメンバーすらいる中で、何故頑なに「肥満」に関する事柄を依然としてセンシティブな領域に留めておくのか。最も不可侵であるはずの自らの精神性は、安易な自虐として切り売りされているというのに、何故単なる可逆的な身体性でしかない「肥満」が禁忌とされているのかわからない。小川や吉澤ですら自らの「肥満」をネタにすることはない。精神よりも身体に重きを置く傾向はどのような根拠を有しているのか。アイドルとしての定義や自負心といったものの根拠を、時代遅れで即物的な身体性に求めていると考えるならば、全て合点がいくような気がしないでもないが、それは同時に自らの限界と矛盾を作り上げることにもなりはしないか。
加護の笑顔は見るものに有無を言わせない強制力を発する。日頃から「チャーミーキャラ」をも凌駕するぶりっ子キャラを厚かましく演じていても、何故か看過してしまいがちで不思議。しかしその強制力は、加護の繊細な心の裏返しのようにも思えて危うくもある。ミニモニ。としての自己意識が悪い影響を及ぼしているのか、徹底して理想の自己像を演じることによって自他の欲求を満たしているようにも思える。その現実感の希薄なあり様はときとして生身の人間として捉えることが困難。それらが僕が加護に対して感じる違和感の根本。現実味の薄さはガクトに類する。
ダウンタウンの容赦のない突っ込みを見ていると、ショック療法よろしく加護がどんどん現実に引き戻されていくように思えて痛快。長年の胸のつかえが下る思いがする。以前ならばその役割は『うたばん』が担うはずであったはずなのだけど。

*1:辻は例外