海辺のカフカ(村上春樹)

15歳の誕生日に少年は家を出る。少年には「カラス」と呼ばれる不思議な存在が常に付き添い、時おり姿を現し少年を導くように暗示的な言葉を投げかける。一方で、「ナカタさん」もおぼろげながら自分に課せられた使命を感じとって旅に出る。ナカタさんは猫と会話の出来る能力を持つ初老の男性で幼少期に遭った不思議な事故のため精神薄弱の身。やがて二つの物語は奇妙な絡み合いをみせはじめるが…。


まるで絵本のような読み心地。透明感を感じさせるというか、原色で彩色された登場人物の姿が浮かぶ。ただし、生々しい性描写の部分は除いて。


村上春樹の作品はいくつか読んだことはある。面白いことは面白いのだけど、なぜか一様に印象が薄い。あまり記憶に残らない。そのことに疑問を感じていたのだけど、本書を読んだことによってそのわけを知ることが出来たように思う。
本書のような所謂文学的と形容される作品には必ずといっていいほど性的な描写が盛り込まれている。個人的にはあまり良い印象を抱かず毎度のように違和感を覚えている(別段真面目振るわけではなく、性的なものを得たいならばその手の本を読めばいいというスタンス)。多くの場合、性描写によって作品全体の完成度というか調和のようなものが乱されると感じるのがその理由。ただ、人間の内面を描くために避けては通れない問題であるかとも思うので、そういったテーマを引き受ける文学作品については仕方のないことだと自分に言い聞かせてきた。感性の相違でしかないと思ってきた。しかし、だ。
本作に登場するナカタさんには性欲がない。大人でありながら性欲がなく、精神薄弱が故に他人を疑うことを知らず、他人を妬まず不平不満を漏らさない。依然として童心を失わずにいる彼は典型的な「よい人」だ。善良な心の持ち主。読んでいて心が和む。全ての読者が彼に好感を抱くだろうことは想像出来る。
そこに疑問が生じる。性欲や負の感情といった、ある意味最も人間らしいといえる心の働きが欠損した人物を文学作品の主要な登場人物としてよいのかと。それが今まで貫いてきた「文学」のあり方に沿うものなのかと。ナカタさんがアリなのだとするなら、僕がこれまで感じてきた違和感はどう清算してくれるのだという話になる。
要するに、「要素」でしかないのだろう。性描写や禅問答のようなカラスの問いかけ、その他全てのことは「文学(ブンガク?)」っぽい雰囲気を醸し出す要素であり装飾で、必然性など二の次以下なのだと思う。だから精神障害者を出しておきながらその負の部分には切り込まない。子供や精神障害者は天使であるという一方的で都合のいい妄想で現実を糊塗し、彼らの人間性と向き合おうとしないあり方はよく非難されるが、本作にはそれがそのまま当てはまる。人間の内面というものはそんなに都合のよいものではないはずだ。


記憶に残らないのは装飾にこだわるばかりで肝心の伝えるべき中身のないから。そのような作品に強い印象を受けるはずがない。それが村上作品に対する僕の個人的な見解。村上作品を完全否定するわけではなく、その面白さは認める。ビールでいうところの「キレ」(=読み心地)を重視した作風なのだろうと思う。ガッツリとくる「コク」(=読み応え)は殆どないが。好みの問題。
注意すべきは、ナカタさんが性欲とは無縁であることはナカタさん本人に語らせているし、大島というペダンチックな物言いをする登場人物にはそれを指摘する(だけの)ささやかな対抗人物をあてがっている。確信的であることを通り越して開き直りのようなものが作者にはあるのかもしれないと思わせる。