スティール・ボール・ラン

回が進むにつれ、セルフパロディの疑いが強くなってきた。いくらなんでもアブドゥルがあっさり敗退しすぎだ。スタンド等の特殊能力も見られなかった。
調べてみたところスティール・ボール・ランレース開催時の1890年、「ディオ・ブランドー」はまだ海底の棺の中にいる。とすれば、ディエゴ・ブランドーなる人物は「ディオ・ブランドー」ではないということになる。ウルムド・アブドゥルのあっけなさと合わせて考えれば、これらもどきは過去作品から借用したキャラクターでしかなく、それ以上の意味はないように思える(パラレルワールドという線もあるが)。この気軽さはちょっと怖い。セルフパロディまで箍を緩めてしまっては歯止めが利かなくなりそうだ。
作品は面白い。特に、荒木飛呂彦の描くチンピラはいつ見ても(逆の意味で)魅力的だ。第二話で主人公ジャイロ・ツェペリがチンピラに絡まれる場面があるが、そのチンピラの生々しさときたらない。「オーラ死んだああーーッ」とツェペリの背に銃口を向けるが、撃たない。悪態をつくだけ。今後付きまとってやる困らせてやると、お前の運命は俺が握っているといわんばかりに悪態をつく。この真綿で首を絞められるようなたちの悪さはどうだろう。殺されるよりも嫌かもしれない。そこに中途半端な正義感など入り込む余地すらなく、腹が立つ以前に関わりたくないと思ってしまう。気味が悪い。これはもう狂人の域だ。この手の人物描写に奇才荒木飛呂彦の本領をみる。ジョジョの奇妙な冒険 第五部に登場したギアッチョ(←お気に入りの狂人)の*1八つ当たり気味の狂気といい、荒木作品はとにかく狂人が熱い。

*1:『「根掘り葉掘り聞き回る」の「根を掘る」ってのは根っこが土の中に埋っているのでわかるが、「葉堀り」ってのはどういう事?葉っぱが掘れるわけない。超イラつく。』といった要旨の台詞を吐く。いいたいことは分かる。(54巻)