僕と彼女と彼女の生きる道 第十一話

徹朗の生き方は社会に許容される否か、という筋書き。審判の結果、徹朗は凛の親権を剥奪されることに。好条件の就職が適わなかったことも含め、社会は徹朗の生き方を認めなかったといえる。しかし救いが全くなかった訳ではない。可奈子の母をして「立派な父親」と言わしめたこと。可奈子も(凛の達郎に対する態度を通して)心の底では徹朗を認めはじめているようにも見える(だからこそ不安を隠せなかった)。凛の担任や父親(善朗)などの素早い心変わり(!)も、徹朗の生き方を認めたからこそ起こり得たことなのかもしれない。まだ光明はあるように思う。
洋食屋での経験は仕事への認識を改めると共に、家庭料理の腕前もあがる一石二鳥の効果なのかな。「料理は愛情をかけただけのものが返ってくる」という料理長(?)の言葉も意味深。これまでのあり方を後悔し、凛の成長を逃さず見守っていきたいという徹朗。共に人生観に繋がる言葉。
以前から可奈子の母親の視線が気になっていた。引っかかるところがあった。しかし実際は分別ある目で徹朗親子を見守っていたらしい。法廷では親子(⇔可奈子)の情と良識との間で揺れ動く。「渡る世間は鬼ばかり」に出演している人らしいので、近く何かをやらかすのではないかと気を揉んでいたが全くの偏見でしたという話。
可奈子を交えて元親子三人で遊園地へ。時同じくして、凛から預かったサービススタンプを手に物憂げな表情を浮かべるゆら。凛にとってサービススタンプとは母親(可奈子)との繋がりを意味するものだと思う。それをゆらに渡したということは・・・と深読みしてみる。
凛との別れ。ただ見つめ合うだけ。大げさな演技を見せられるよりも余計にリアリティを感じた。ドラマ定番となっている誇張表現(「白い巨頭」などに顕著)はまず現実にはありえない(「僕と彼女と彼女の生きる道」はドラマの常識を覆す仕掛けが多いように思う)。演技を極力排除したことから、草なぎの内面表現が強調され心の底から悲しんでいるように見えた。物語としての悲しみと草なぎ剛の内面表現への感情移入からくる悲しみとで二重に切ない場面だった。