僕と彼女と彼女の生きる道 最終話

徹朗は凛にとって近くて他人のような父親から、遠く離れているが大好きな父親となった。物理的な距離は離れてしまったが、精神的な距離は劇的なまでに縮まったのだ。徹朗は社会から与えられる既成の幸せではなく、自分だけの等身大の幸せを手に入れたのだろう。ゆらとのはっきりとしない微妙な距離感もなかなか良い(凛の手前上も)。中途半端な終わり方にも思えたが、それは物語が既にエピローグに達していたからだと思う。僕にいわせれば、第六話で徹朗が凛との絆を取り戻した(作りあげた)時点で物語の山場は越えてしまっていた。それ以降はおまけみたいなもの。小さな山場はあっても物語の方向性を揺るがす程のものはない。徹朗の進む「道」は定められた。あとは日常のなかで、如何に自分の信念を貫いていけるかという内容。どこで終わってもおかしくなかった(逆にまだ終わっていないとも)。
ドラマ名から窺えるので改めて書くことではないかもしれないが(しかし自分は途中まで勘違いをしていたので)、物語の眼目は凛との親子関係に収まらなかった。徹朗の生き方(生きる道)そのものにあったようだ(←いささか風呂敷がデカいが)。それは親子愛をも内包する、人生を通して貫くに値する価値観の探求。娘と一緒に暮らせるかどうかは表面上の問題でしかなく、本質はもっと深いところにあった(この点では「クレイマークレイマー」を越えたかも。ただし完成度は別として)。娘の親権がどちらに移ったとしても、物語には大筋で影響はなかったのだろう。どう転んでも信念を持って自分の道を進むだけ。どのような状況下にあったとしても親子愛を貫くことはできる。大切ことは娘と一緒に暮らせるかどうかではなく、娘のために生きると決心した自分の選択。だからこそ、ゆらは凛を言い訳にするなと徹朗を叱責したのだと思う。理想の父親像を隠れ蓑に、凛の人生に寄りかかって生きるような徹朗の物言いを非難したのだ。自分の選んだ人生をしっかりと歩むこと。それが肝要なのだと自覚して欲しかったのだと思う。(この辺のことに関して異常なまでに厳格なゆらは確かに怖い。求道の道のりは一切の妥協を許さず?)
前作に比べて風呂敷を広げすぎたようにも思えるが、手が込んでいて味のある演出の数々は素晴らしかった。朝、親子が共に出かける場面をパターン化し、歩く二人が隔てる空間によって心の距離を表現した憎い演出方法もあった(はじめは徹朗の数歩後を離れて歩いていた凛だったが、最終話では二人手を繋ぎ、楽しそうに飛び跳ねていた)。なかでも特に印象に残ったのは独特の演技傾向か。大げさな喜怒哀楽を排除し、禁欲的なまでに心情表現にこだわり続けたそれは、最終話で頂点に達したと思う。徹朗と可奈子が互いを認め合う場面。徹朗の言葉に感極まり涙する可奈子。あの瞬間、りょうは「可奈子」に重なった。そこには演技を超えた真実があったと思う。偽りではない真実の涙。(演技とはなんなのだろうと改めて考えさせられた場面でもあった)
以下細かいことを少々。凛の「はいッ」に頼りすぎてはいないか。最終話での連発はどうかと思った。そもそも凛の「はいッ」に代表されるよそよそしい話ぶりはひとつの目安として機能し、心を通わせるにしたがって親しみのある年相応の砕けた表現になるのかと期待していたが、そうではなかったようだ。同様にゆらも、主に挨拶の際に見せる笑顔と口調が他人行儀(営業スマイル?)のように思えていた。凛のそれと連動し(ゆらの幼少時代と重ね合わせるなど)いずれなにかしらの繋がりを見せるのではないかとひとり構えていたが、これまた思い過ごしだったようだ。可奈子の母親の演技といい、(勝手に)惑わされることが多かった。総じてなんだよという話。それだけ食い入るように観ていたことになるのかな。
&Gについて。『日経エンタテインメント!』に稲垣吾郎を評して「SMAPいち音程が安定している人物」といったようなことが書いてあり、上手いことをいうものだと感心した。少なくとも声量が絶望的に不足しているので、歌唱力が優れていると書いてしまっては嘘になる。意識的な省エネ歌唱法なのか。