岡田流「萌え」

もちろん「ルパン三世 カリオストロの城」は単体作品として十分に楽しむことの出来るものだけど、この作品のアニメ史における意義(歴史的観点?)を踏まえて観るならもっと面白いような気がしてきた。大雑把にいって、東浩紀の持説では作家性を重視するモダン期に位置づけられるだろうし、岡田斗司夫にいわせれば、それまでは限られた一部の人々の嗜みでしかなかった「萌え」を一般化した作品であるらしい。
クラリスに感じる魅力を「萌え」としてしまうのは酷く乱暴な気がするが、「BS漫画夜話」で漫画談義に熱弁を振るう姿や、「サイゾー四月号」対談内での「萌え」解釈を見る限りは、岡田斗司夫はそういう人物なのだと思う。細部や多様性を吟味するよりも、最大公約数的要素を多少強引であっても抽出し、無理やりにでも分類・定義付けしたい性分なのだろう。「サイゾー四月号」で秋葉原を性欲の街と言い切ってしまう(「その方が解釈としてはスッキリする」のだそうで)ことにもよく表れている(対談相手の森川氏がいうように事態はもっとセンシティブであると思うが)。もしかすると彼の言説の根底にはある種の照れ隠しが動機としてあり、「オタク」に関わる全事項の相対化と分類を徹底的に行うことによって「オタク」の暗部を白日の下に晒し、それによって何かを実現(誤魔化し)しようとする無意識の強迫観念があるとも思える。もしそうであるならまさに「オタクはオタクを語れない」というやつだ。彼の著書に目を通さずにこんなことを言うのは失礼なので、今度『オタク学入門』でも読んでみたいと思う。
それにしても、「BS漫画夜話」の単純で表層的な楽しみ方を見下すような一部パネラーの排他性は観るに耐えない。たかが漫画と気軽に足を運んでしまった哀れなゲストの哀れな末路。その姿勢はオタクのある側面を如実に示しているようだが、この意味では「モーヲタ」は「オタク」ではないとも思ったりもする。「モーヲタ」は一時に比べて敷居が低くなった気がする。内では党派性にも似た論議で反発しあったりもするが、一方で、外の人間を積極的に招きいれようとする傾向も強い。矛盾なのか柔軟性なのか多様化なのか。一般化かな。
オタク語の「萌え」はギャル語の「カワイイ」と同様、既に多岐に渡って使用されるオールマイティーな多義語(?)となっているので、感情表現としては容易でつかみ所がなく、あまり好ましくないような気がする(事実、2chでは用途に特殊化した言葉へと移行しているように思う)。所属を示す専門用語として使用されているのかもしれないが、実際のところは浅学な僕にはわかならい。「萌え」についてはプロ・アマ問わず、現在までに様々な解釈と議論が成されてきたことは容易に想像がつくので、不用意に言及するのが怖いというのが本音。