ミニモニ。でブレーメンの音楽隊 最終回

結局のところ、健志は雛子に裏切られたとの思い込みから成仏出来ずにいたわけではなかった。雛子の気持ちは確かに健志へと届いていた。夭折はしたものの、健志は苦しみから救われていた。少なくとも自分の生に意義を見出すことは出来たはず。では何故、健志はおばけとして旧犬塚家へその姿を現すことになったのか。・・・それは、雛子のためだったのではないかと思う。
雛子が旧犬塚邸を所有したのは罪滅ぼしのためだという。その根底には、叶わなかった健志との約束があることは間違いない。すれ違うように健志と死別したあの日、雛子の「思い」は行き場を失った(健志への献身に亡くした家族への思慕も重ね合わせていたように思う)。誠実な雛子のこと、それからの人生は贖罪に満ちたものだったのかもしれない(ちよのがハーモニカを手にしていたことも、美音子がフォークに目覚めたことも偶然ではない)。明るく前向きに振舞いつつも、心の奥底では自責の念に苛まれ続けた人生だったのだろう。故に、雛子には合奏の補完を望むだけの強い動機がある。健志は雛子の気持ちに答えるため成仏せずにいた。
ラストシーン。健志の感謝の言葉を受け取ることによって雛子は救われた。五十五年の歳月を経て、漸く健志は雛子の気持ちに答える(恩に報いる)ことが出来たのだ。同時に、巡り巡った救済物語の円環がぴたりと閉じた瞬間でもあった。
大団円に美音子とちよのの姿があったことも無意味なことではない。花子(ミカ)は可愛がっていた雌鳥と同じ名前を持つことやその出生の縁から、雛子の精神を受け継ぐ象徴的人物。健志とは表裏一体の関係を成し、共に時代を越えて存在する。当然、花子母娘に影響を受けた美音子とちよのも雛子の精神を継いだことになる。それは雛子の人生の結実でもある。その二人を媒介に五十五年前に失ったあの日に戻り、心の空白を埋めることが出来たという奇跡。ラストシーンは雛子だけの幻想的な心情風景だったのかもしれない。それは救済のビジョンを示す。
多少強引なところもあるとは思うがこれが僕なりの解釈。 「ミニモニ。でブレーメンの音楽隊」は(当たり前だが)五十五年に渡る雛子の物語が外郭としてあるのだろう。そもそも洋館には因縁など存在してはいなかった。健志の魂を洋館に留めていたのは裏切られたとの思い込みからでなく、それとは正反対の感情からだった(「kenji」の名が刻まれたハーモニカ。仕立て直されたシャツ。おばけの健志ははじめから愛に包まれている)。それは時代を越えて尚繋がり続ける心の絆(普遍的な愛の形?←「ドラマ 愛の詩」)。アイドル「ミニモニ。」を主役として起用しつつも決してそのアイドル性に頼りすぎることなく、細部の作りこみも疎かにせず、芯にはしっかりとした物語を据える。その姿勢には頭が下がる。物語オタクの僕にとってこの上ない作品だった。出会えたことをミニモニ。に感謝したいというのが正直な感想。