仔犬のワルツ(第九話・第十話)

今さら各話ごとの感想にどう手をつけてよいのかわからなくなっている。ドラマが完結する前にその総括に手をつけてしまったので当たり前といえば当たり前か。ただ、はじめから本ドラマにはどのような向き合い方をしていいのか戸惑わせるものがあり、一度(自分のなかで)はっきりさせたいと思ってはいた。規定外のドラマだからといって安易に「怪作・駄作」として片付けたくはなかったし、またそういった色眼鏡を通して観ることによって見逃してしまう「何か」があるのではないかとの不安があった。
前回、「冬のソナタ」との関連性云々といった主旨の妥当性に取り掛かる以前の問題として、「ドラマ知識に疎い自分が何を語っても説得力がないのでは?」という頭を抱えたくなる事態があった。よって嫌でも断定をさけた言い回しにならざるを得ないかったのだが、そこは思いがけずmergさんから援護射撃を頂いたので素直に嬉しかったです。
さて、ドラマ全般に限ったことではなく、現在のフィクションのあり方として、視聴者(読者)が許容出来る範囲内でわかり易いものであることが求められる傾向がある。そのことは、芥川賞の受賞に際して綿矢りさの作品が「わかり易すぎる」と批判されたことを思い出させる。
物語の筋立てから登場人物の思考に至るまで明瞭明快でよどみがなく、更に一切の無駄を省いてデフォルメされた演出を用いれば、視聴者(読者)にカタルシスや共感といったものを与え易いだろうことはわかる。しかしそれが行き過ぎれば、視聴者(読者)に迎合する作品になってしまうのではないかという危惧が生まれる。映画を観て泣きたいと望むその姿勢自体はそれ程咎められるものではないと思うが、問題はそういった客向けに特化した作品が作られることにある。
一般に純文学と呼ばれる作品群は無駄に難解で陰湿で、読者の持つ感受性をはじめとした内面部分に訴えかけることを主としているが、読み易さに関してはそれほど考慮されることはないように思われる(←個人的なイメージ)。別段、ミステリのように話が進むにつれて謎が解明されていくわけでもなく、特に起承転結に沿って物語が展開するわけでもない(←勝手なイメージ)。・・・と書くと、読者が望む形でカタルシスを得るにはあまり適さないジャンルのように感じるが、しかし一見「無駄」と思える部分こそが重要であり、視聴者(読者)に様々な解釈を与える「深み」なのではないかと思う。その深みに達することが出来た読者は、比べ物にならない程のカタルシスや共感といったものを得ることが出来るのではないか。
純文学を持ち上げる気はさらさらないが、分かりにくさには意味があると思いたいし、また意味のない分かりにくさがあってもいいのではないかとも思う。最近のドラマを観ているとフィクションでありながら「わかり易さ」という制約に必要以上に縛られているように思えてならない。高尚と形容されるような、意味深なだけで物語としての起伏も殆ど無く、淡々としていて湿度だけが異常に高そうな旧日本映画然としたドラマ(←個人的なイメージ)ばかりになってしまっても困るが、わかり易さや現実感覚にがんじがらめで地から足を離すことが出来なくなっているドラマばかりではなく、様々な作劇法によるドラマがあってもいいのではないかと思う。時勢や商業的側面といったものに否応無く左右されてしまうことはわかるが、保守的なことばかりしていては少々面白味に欠ける。
もし本ドラマが高視聴率という形で結果を残したならば、今後のドラマ制作の方針を根本から揺るがすような事態になっていたかもしれない。残念ながら視聴率は全く振るわなかったようだが。