仔犬のワルツ 最終話

葉音は宣言したとおり芯也に本物の愛を持ち帰った。愛を知らなかった芯也は葉音の愛に触れ、はじめて人間らしい感情に目覚めることが出来たのだろう。その先、二人はどうなったのか?あの銃声の意味は?・・・ああいった形で幕引きがなされた以上は、あまり余計なこと言うべきではないのかもしれない。
連続殺人事件の概要は恐らく、本来は別個の事件である水無月芯也の「音楽を冒涜する者は問答無用で皆殺し」をモットーとした犯行と、「片岡久枝(女医)−水無月唱吾」親子の権力・金銭目当ての犯行(復讐劇?)とが偶然、同時に起ったということなのだろう(多分)。そこに葉音の出生の秘密である「水無月譜三彦−水無月律子(近親相姦)」と「水無月鍵二−水無月譜三彦(どっちがどっち?)」という他言出来ない内輪の事情などが複雑に絡み合い、事件を把握し難いものとした。
最終話にきて本作は「愛」と「希望」をキーワードとしたベタベタの純愛ドラマに収束してしまった感がある。細かいところを指摘すれば、ハートのアクセサリーを身に付け、水無月千世に「はあと(ハート)」と呼ばれる葉音はおそらく「愛」を、劇中何度も流れた「グロリア〜希望の光〜」がそのまんま「希望」を象徴していたのかも。ラストシーンにおける芯也の変化は「愛(葉音)」と「希望(グロリア)」の相乗効果がもたらした奇跡、というベタ設定だったのかもしれない。
ただ、あからさまに「愛>芸術」という図式が成り立ってしまったことは少々意外だった。学長・水無月奏太郎とその妻・千世の、執拗なまでの鍵二へのこだわりも、相手方の愛情を何とか自分へ向けさせようとする手段でしかなかったわけだし(千世と互いの気持ちを確認した後、水無月奏太郎は人が変わったように芸術に関心を失ってしまった)、鍵二の芸術至上主義を人類統治にまで押し広げた先鋭にも程がある考えも、葉音(←愛)によって誤ったものの見方であると諭されてしまった(そして鍵二は恋人(ノッティの母親)のいる天国へと旅立つ)。人類平和のため文化繁栄のためといった大義名分があったはずが、ひょんなことから個人的で瑣末なことへと、全てが裏返ってしまったような印象がある。
水無月奏太郎・千世夫婦と鍵二だけであるならまだ美談として収めることが出来たかもしれないが、偉大すぎる鍵二の影に悩まされ続けてきた水無月家の面々のことを忘れてはいけない。詰まるところ、劣等感を感じていたのは鍵二の比類なき芸術的才能に、であり、それに目をかける水無月奏太郎・千世の愛情に、であった。しかし水無月奏太郎・千世から鍵二へと向けられていると思われていた愛情は、実は鍵二を飛び越えて互いの相手方に向けられていたわけで、そんな痴情のもつれと紙一重でしかないようなことに劣等感を抱かされ人生を狂わされていた水無月家の面々は、哀れを通り越して悲惨である。