芸能人然(役者然)とした振る舞い

昨日の『土曜スタジオパーク』(NHK)に山本耕史が出演していた。同局のドラマ、『新撰組!』の提灯企画の一端として、土方歳三役の彼が呼ばれていたわけなのだが、妙に違和感のある番組だった。なんというか、扱われ方や本人の佇まいによって「(カッコいい)役者、山本耕史」といった認識をこちら側(視聴者)に押し付けられている感じがしたのだ。
別段、彼の一般評価が不当に水増しされているとして異議を申し立てたいわけではない。山本耕史本人の資質や人気に対してではなく、純粋に「役者=格好いい」という図式に対して違和感を覚えた。現在、このような振る舞いが(あるときは半笑いで)許されるのは木村拓哉くらいなのではないかと思う。


強引に「役者=格好いい」という図式が一般的には受け入れられない、という前提の下に話を進めるが、その根底には「気取ってんじゃねえよ」といった下からの突き上げが考えられる(主に僕の)。またそのことは、現在の自然体を身上とする若手俳優の異常繁殖と決して無関係ではないと思う。
「役者=格好いい」という図式を仮に「芸能人然(役者然)とした振る舞い」とするとして、それが遠因のひとつとなり、役者(芸能人)としての自意識さえも煙たがられる現在の風潮がある(主に僕が煙たがる)。もっと言えば、それはこれまでのドラマのあり方(大げさな芝居が嫌われる)にまで影響を及ぼしていたような気がする。以前は「自然体」とは芝居下手の役者崩れが用いる、開き直りにも似た自己肯定の言葉でしかないと思っていたが、そればかりではなく、手を伸ばせば届く存在であるとしたい視聴者側からの要請を、敏感に反映したあり方だったのではないかと今は思っている。どちらが鶏でどちらが卵かという問題はあるが。


現在、「芸能人然(役者然)とした振る舞い」を嫌味なくこなすことが出来る人物は、日本ではGacktくらいなのではないかと思う。下からの突き上げをユーモアでいなす技術もなかなかのものだ(木村拓哉はいなすことができず、半笑いの対象)。同じような路線を目指した河村隆一が早い時点で妥協したことからも、湧き上がる自己露呈欲求に耐え続けるということは並大抵のことではないとは思う。とはいえ虚構の世界で気を張り続けることに疲れ、ありのままの自分、弱い自分を見てくれと言われても、大抵の浅い視聴者(≠ファン)は困惑してしまうだけだろう。それはプロ意識に繋がるそちら側の問題だからだ。
「日本では」との但し書きには、もちろん例外としての「韓国産ドラマ」の存在が念頭にある。露出の少ない現時点で素の人柄など知るよしもないが、かの「ヨン様」ことペ・ヨンジュンの公での振舞いは文句の付け所なく「芸能人然(役者然)とした振る舞い」に見える。役者としても「自然体」と真っ向から対立する演技手法を採っている。一部の隙もない。しかし昨今のリメイクドラマブームという追い風もあり、日本でもドラマ全般における虚構(⇔自然体・現実)志向は更に高まることだろう。そう思って網を張っていたところに、まんまと引っかかったのが役者・山本耕史だったというわけだ。


話をずれるかもしれないが、この話を大げさにしていけば、スターとは本来的にスターなのか、または作為的に作られるものなのか、という問題に行き着くような気がする。
また、この問題を強引にモーニング娘。に当てはめてみれば、アイドルとは「本来的」にアイドルなのか、それともアイドルに「成る」ものなのか、ということになる。「自然体役者」に類するアイドルが藤本美貴で、「性格俳優」に類するアイドルが松浦亜弥、という捉え方をした場合、では自らのアイドル的振る舞いを「ネタ」として自己パロディ化する石川梨華のあり方はどうなのか。それはまさにモーニング娘。のアイドルとしてのスタンスを体現しているといえるかもしれないが、それはまた別の話。