ウォーターボーイズ

現在放映中の市原隼人主演の「2」ではなく、2003年の夏に放映された山田孝之主演の前作。一日二話で五日間(最終日は三話連続)、短期集中(再)放送されていたので観た。シンクロが題材なだけに、蒸し暑い盆休みに最適の涼しげなドラマだった。そして最高のドラマだった
集中放映だったのでインターバルが短く、熱が冷めやらぬままたたみ掛けられてしまったような気もしないでもないが、それを差し引いたとしても、僕がここ数年観たドラマの中では最高の出来だった。


言い切ってしまえば、スポーツ系の青春ドラマとは予定調和の物語である。大会優勝などの大目標に向かい、多少遠回りしながらも定められたレールをしっかりと突き進む。この手のドラマは全てを了解した上で、その紆余曲折に一喜一憂するのが正しい楽しみ方だと思っている。ただ予定調和なだけに、配置される物語の起伏が時に有名無実化し、必然性皆無の単なる通過点とされてしまう場合がある。要するに、本来ならば各話の積み重ねによって物語を大団円へと導くことが不可欠とされるが、その辺の認識が甘くなる傾向があるのではないかと。それは細部の作り込みが甘くなることを意味する。視聴者としてもあらかじめ行き先が見えているため、多少のことは看過してしまいがちになる。
さて本ドラマも例外なく「文化祭でシンクロ公演を実現する」という大目標が最初から提示されていた。しかしそのお題目に甘えることなく、「熱意」に逃げることなく、あくまで正々堂々と正面突破を図る姿勢が貫かれていたので驚いた。この誠意ある作りには好感が持てる。
具体例を挙げるなら、教育委員会から地域住民への負担を理由に、シンクロ公演中止勧告を告げられた場面があった。この困難をどのように克服するのかと考えた場合、一般的なスポーツ系の青春ドラマが拠りどころとするものは「熱意」だと思う。自分達にとって如何にシンクロ公演が大切なものであるか、如何に努力してきたかを切々と語り、情に訴えかけるのが定石だろう。しかし生徒会長でもあるシンクロメンバー・田中昌俊は、中止理由とされる諸問題に対して改善策を提示し、自分たちで解決していくと主張する。だからシンクロ公演を認めてくれと。「熱意」によって情にほだすのではなく、懸案事項を更なる努力によって解決しようとする。あくまで正面突破を狙うこの姿勢は大変小気味がよい。そして現実的で隙がない。教育委員会側も中止理由を具体的な提案によって無効化されては、否が応でもシンクロ公演を認めざるを得ないだろう。


以上、理屈くさいことを述べたが、実のところ最も印象に残っている場面は情緒的なものだったりする。それは第一話のラスト-シーン。シンクロへの未練を断ち切れず、かといって先立って何かをする気概もなくただウジウジしているだけの主人公・進藤勘九郎。むしゃくしゃするあまり閉鎖中のプールに忍び込み服も脱がずに飛び込んでしまう。するとそこにお調子者の立松憲男が現れる。新しい仲間が来ることを期待してプールに足を運んだのだと言う。

「中止が決まったんだから、誰も来るわけないだろ」
「バカだね進藤ちゃん。進藤ちゃんが来てくれたじゃないの」プールに飛び込み進藤に水をかけはじめる立松。
「どうすんだよ、進藤ちゃん!」
「…やってやるよ!△○×▲○×!!(←叫び)」

お調子者の仮面の裏には確固たる信念が隠されていた。いかなる時にも前向きの立松。彼に背中を蹴飛ばされる形でシンクロ公演実現への道を歩みはじめる進藤。未練とわだかまり、信念と信頼。駄目主人公を目標に向かわせるに相応しい名場面。正直なところ、当初は主人公役の山田孝之にも立松憲男のお調子者キャラクターにも好感を持てず、どうしたものかと思っていたのだが、この場面で一気に物語へと引き込まれてしまった。


青春ドラマの王道でありながら、そこに甘えずしっかりとした筋立て。お調子者で信念の男・立松憲男と、生徒会長で理論家・田中昌俊によって脇を支えられた(+筋肉男とデブ)、精神的にも技術的にも難点のある主人公・進藤勘九郎の成長物語(群像劇?)。爽快感に溢れときに胸が熱くなる、シンクロにかける青春を追体験させてくれるドラマ。シンクロ公演部分でバッサリと幕を引き、余韻を残すラストも好み。ラストのシンクロが全体としては少々浮いてしまっているように感じるのは、そこに至るまでの筋立てがしっかりしている所以だろう。