続・お笑いについて

僕が明石家さんま島田紳助の出演する番組をあまり観ない理由は、前回書いたように、笑いの中に全く笑えない要素を見つけてしまう回数が飛びぬけて多いから。お笑い番組を観て不愉快な気分にさせられたくはない。
例えば『踊る!さんま御殿』にて。話を振られ無理をしてまで期待に応えようとするゲスト。そこにノーと言えない日本人の姿を見るようで気分が冷める。もし同じ状況だったらと考え、確実に同じことをする自分に思い当たり気が遠くなる。僕に言わせれば、これは「お笑い」などではなく「ホラー」である。潜在的な恐怖をかき立てられるというか。
明石家さんま島田紳助が偉そうだとか傲慢であるとか、個人に還元されるような問題ではなく、これは構造上の問題。シチュエーションコメディでもないのに「世間体」や「上下関係」、「権力」といった世俗的で反笑い的要素が番組進行の中に組み込まれている。詰まるところテレビの論理である。夢が無い、なんてロマンティックなことは言わないが、個人的な考えとして「笑い」とは現実の地平と地続きであって欲しくはないと思っている。
取り巻きに囲まれ持ち上げられてばかりいると碌なことにならない。それは不幸なことだ。さんまに関して言えば、目上の存在である所ジョージや北野たけしなどと競演し、遠慮のない突っ込みを受けてこそ本来の持ち味が活きるような気がする。暴走する芸風を野放しでは効率の良い笑いは生まれない。先日、『恋のから騒ぎ』をちらと観たのだが、出演者たちのさんまバッシングが笑いに繋がっていて少し安心した。

相方の身の振り方について

アイドルが自己主張や知名度向上の手段として手を出すのならともかく、職業芸人が無為無策に駄目キャラに走る姿が最近よく目に付く。彼らは先輩芸人の生き様を一顧だにもしないのだろうか。
天才・松本人志の相方として日陰に落ちかけた浜田雅功が採った手段は、自らの突っ込みの過激化であった。先輩後輩の区別無く果敢に突っ込みまくり、ダウンタウンに突っ込みの浜田あり、と名を成すまでになったことは周知の事実だろう。余談になるが、図式的な見方をすればこの突っ込みの過激化とは反権威・反権力であった。なので、権威・権力側からの反発を受けてはじめて対立構図として綺麗に成り立つ。そこには爽快感さえ生まれる。しかし浜田の特異な風体が仇となり、いつ頃からか、本気で恐れ戦いた権威・権力側の人物がプライドを捨て、下手に出る場面が見られるようになった。そうなってしまうと、浜田の芸風はチンピラの恫喝以外の何ものにも見えなかった。強引にこじつければ、それは浜田が対立する相手側陣営にその身を移し変えはじめた兆候だったともいえる。どちらにしても、以降、過激な突っ込みは影を潜めていくことになる。

コンビの内情

ペナルティ、ドランクドラゴンカンニング品川庄司。以上が、それほど熱心ではないお笑いファンの目から見て、活躍や注目度に差が出始めていると感じるコンビ。ドランクドラゴン鈴木は本来の個性を活かす形で駄目キャラ扱いされているようだが、最近少々エスカレートしているように感じる。どこまで自分の芸として取り込んでいけるのか観察中。カンニング中島は見た目と言動、どちらをとっても日陰芸人としか思えない人物なのだが、不思議と卑屈さや影のある様子は見受けられず、意外と好印象。他のコンビは類型的な駄目な自分演出に流れているように感じる(庄司については後述)。
コンビ芸人の明暗を露骨なまでに世間へと示した画期的ユニット「くず」。ユニット全盛時、くずが活躍すればするほどに蛍原と平畠の精神的に追い込まれていく様は、見ていて切ないほどだった。当たり前のように蛍原と平畠は、自分自身の置かれた情けない状況を何とか笑いへと転化しようとするのだが…。現在の蛍原は悲壮と自暴自棄から抜け出し、よい味を出していると思う。面白いかどうかば別として、見ていて切なくはならない。

組織的に行われる救済企画

先日の『うたばん』は品川庄司の庄司が大塚愛に恋心を打ち明け、玉砕するという内容だったが、これは典型的な日陰芸人サルベージ企画だろう。ハロプロ関連においても同番組では飯田圭織保田圭をサルベージした実績がある。現在は小川麻琴をサルベージ対象と定めているようだ。
また『内村プロデュース』でのレッド吉田とふかわりょうの面白がり方にも同様の意図を感じる。あらためて書くまでなく、ふかわりょうはテレビ芸人への転向組である。

本当に笑える「笑い」とは

以前にも「笑い」とは差別の側面を持つと書いた。活躍する相方とは対照的に惨めで冴えない自分を演出し、笑いへと転化しようとする試みはまさにそれである。ここでとってつけたようにモーニング娘。の事例を持ち出すが、アイドルとして第一線に立てない自分を自虐する保田、常識を逸した突拍子のない発想をする幼稚な辻を面白がるという行為もそれである。感覚的であったり文脈から生まれる笑いはあるが、どこか引っかかりのある後ろめたさを覚えはしないか。個人的に重要視したい問題である。
以前、ラジオ『ヤングタウン』で自らが規定する笑いの枠組みに嵌めようとし、カントリー娘。りんねを幾度となく泣かした明石家さんま。他にも、笑いという絶対性を振りかざし様々な人物を泣かしているようだが、彼の中では「笑い」と「悲しみ」は矛盾なく同居しているのだろうか。一遍頭の中を覗いてみたい。

円満な関係であること、健全な笑い

僕がω(ダブルユー)を評価する理由に、二人の良好な関係がある。それは友人としての仲の良さといった単純なものではなく、互いをパートナーとして認めた延長線上に生じる信頼関係をも内包している。本業の不充実を補う形での楽しさだけに偏った自堕落な仲であっても、信頼に結びつかない充実であっても駄目だ。(だんだんと話を大げさにしていくが)内外、心技、双方兼ね備えていなければいけない。これまでのハロプロユニット、どれもが届き得なかった徳であるともいえる。しかしω(ダブルユー)からはその高みへの到達を感じさせる。(だから評判の高い『ロボキッス』よりも二人のパートナーシップを強く感じることのできる『あぁ いいな!』の方が好みだ)。
くりぃむしちゅーキャイーン、レギュラー、品川庄司。以上のコンビからは仲の良さが伺えてほのぼのする。自然と笑う準備が出来る。しかし多くのコンビは、露悪的にコンビ仲の悪さを喧伝して憚らない。同級生の目を気にして親と外を歩きたがらない反抗期の中学生を連想させる。それはそれである意味笑えはするのだが、それは彼らが望む形での「笑い」ではないだろう。


流行の毒舌に手を出してみたり、自暴自棄気味に(まさに)洒落にならない自虐へと走るのもいいが、それらが正道を外れたトリッキーなものであるとどれだけの芸人が理解しているのか。笑えない要素で「笑い」を組み立てる困難にあえて向かっているように思える。基本を疎かにした飛躍はどうにも危なげで見ていられない。
ある笑いが差別的であるとの非難を受け、中止に追い込まれることがしばしばある。芸人は視聴者側の不理解を嘆きがちだ。ある面においてそれは真実なのだろうが、では芸人側の不認識はなかったのだろうかといつも思う。

更新後期

軽い気持ちで書き始めたら長くなった。強引に纏めたところでもう帰る。さんま許すまじ!てところが伝わればそれでいい。長くなりすぎたので気が向いたら後で手直しする。(ネットカフェより)