JR脱線事故について

JR脱線事故は本当に痛ましい出来事で、遺族の方々には心からお悔やみの意を表したい。JRは厳しく責任を問われるべきで、そのことについて異論はない。だがそれでも、現在テレビで永遠と垂れ流されているJRのお偉いさんへの一方的な責め立ては見るに耐えない。無抵抗の相手にヒステリックな暴言を浴びせ、中には興奮し胸倉をつかむ被害者家族の姿も見られた。そうされるだけのことをJRはしたのだし、取り乱す被害者家族の気持ちも分かる。しかし、外務大臣の中国への物言いではないが、動機があるからといって何をしても許されるということではないと思う。被害者だからといって加害者に対する権利が無制限に拡大される訳ではない。少なくとも暴力行為だけは抑えて欲しいと思う。
そして被害者家族ならまだしも、一部の記者のまるで世間の良識を代表しているかのような振舞いはどうしたものか。当事者ではないのだから、たとえ裁判により有罪を免れない相手であったとしても、最低限の礼はわきまえるべきではないのか。まして人権を重んじる観点から、加害者の権利尊重を主張することのあるマスコミがすべきことではない。粗探しの末、職員一人一人にまで事故責任を広げようする暴挙も看過することが出来ない。
最近フィクションの世界でよく見かける「アンチヒーロー」という題材が示すように、この現実社会で何かしらの組織に属する人間が勤務中、もしくはそれに類する状態にある場合、独自の判断で行動することはまずあり得ない。職務に穴を開ける可能性があるならなお更だ。社会規範に照らし合わせ明らかに正しいとされる行為でさえ、許可を得るため上司に伺いをたてる(または顔色を伺う)。組織全体としての価値観が優先される。構成員一人一人が勝手に動いていては組織として成り立たないからだ。個人が持つ正義感や社会通念に基づいて行動するということは、様々な責務をその身に引き受けるということでもある。当然そこには会社を解雇される覚悟も含まれる。自らの道徳観・信念を貫き、内部告発に踏み切った人間が、その後組織からどのような扱いを受けるのか。最もわかり易い例だと思う。
事故列車に偶然乗り合わせていたJR職員の非英雄的行動(=組織的行動)はそんなに批難されることなのだろうか。また事故当日、ボーリングに宴会と遊興にふけっていた平職員の全体意識の欠如はどこまで追及されるものなのだろうか。よほど自由で砕けた社風でない限り、平職員にとっては上司の意向が絶対で、逆らうことなど到底不可能と思える。つまり全責任は上の人間が取るべきで、というか、何かあった場合に責任を負うのが役職者の当然の務めであり、それは給料としても反映されているのではないか。平職員に上司と同等の責任を求めるのは酷であると感じる。会社の重大な失策によりマスコミに絶対悪として仕立てられ、事件と直接関係のないことまで批難を受け、平社員として所属する自分までもが過大な責任を問われてしまう。叩いて埃の出ない組織が一体どれだけあるのか。全国の平社員にとってこれは対岸の火事ではない。明日はわが身となりかねない。
被害者家族側の権利回復に尽力したいと考えるならば、公共の場で我を忘れて取り乱し、時には暴力行為に及んでしまうほど精神的に追い込まれた方々に歪んだ形で同調することではなく、むしろ勇気をもってたしなめることこそ必要なのではないかと思う。自分自身が百パーセント正しいと思う人間は、その絶対性によって歯止めを失いがちで、正義という名の暴走に陥り易いように思う。悲しみに暮れる人々を前にそんなことが言えるのかと問われたならば、僕は何も言うことが出来ない。ただマスコミが良識という虎の威を借り、その身を危険にさらすことなく加害者に批難を加え、感傷に偏った報道を垂れ流し続けることにはいい加減うんざりする。たとえそれが酷薄なものであってとしても、徹底した第三者目線の報道で事故の実態を明らかにし、場合によっては被害者遺族の行き過ぎを指摘することもマスコミの役割なのではないか。悲劇性ばかりを煽り立て、結果として被害者家族の印象を悪く伝えているとしか思えない報道のあり方には疑問を覚える。


社会的制裁と刑事罰・民事責任との兼ね合いと、(これは個人的な印象でしかなく統計的な裏付けがあるわけではないのだが)1999年の山口県母子殺害事件あたりから表面化しはじめた被害者(被害者遺族)の加害者への激情を隠そうとしない過激な言動など、事件を離れて考えさせられることは色々ある。しかしもし今回、僕のようにマスコミの偏重報道によって少なからずJRの置かれた立場に同情してしまう人がいるのだとするなら、人々の関心を事故の原因究明から安易な人情劇へと逸らしてしまったマスコミの責任もJR同様、厳しく追及されるべきだと思う。