ミニモニ。でブレーメンの音楽隊 第八回

ちょっと気の早い総括を無責任かつ纏まりなく以下に。第二部まであやふやな記憶を辿りながら。
第二部と比較してみると、第一部は劇中劇の題材であったこと以上に「ブレーメンの音楽隊」との関連は薄かったように思う。劇中劇の達成が「ブレーメンの音楽隊」を下敷きとすることを拒否している。問題はちよのの精神的成長を描くストーリーにあったと思う。成長を描き切るためには大目標である劇中劇の達成が欠かせなくなる。そこに齟齬が生じた。原作に当てはめれば、落ちこぼれの動物たちが音楽隊に入隊したようなものだ。成長物語としては良く出来ているが、「ブレーメンの音楽隊」の寓意は伝え切れていない。
逆に、第二部では様々なものを犠牲にしてまで「ブレーメンの音楽隊」が持つ寓意を表現しようとしていた。大目標であった路上ライブの不達成。途中で起こる偶発的な事件(ひったくり犯との遭遇)を通じて新たな価値観に目覚めるという流れ。美音子の成長を描くことの断念が物語を「ブレーメンの音楽隊」に近づけたのだろう。
第二部の主人公美音子は(ちよのと比較して)何も変わってはいないし、何も成し遂げてはいないといえる(そもそも変わる必要はない)。変わったのは黒田家の面々であり大神・紺野と、美音子を取り巻く人々の方だ。美音子を動かす根本精神は優等生・劣等生という*1区分を越え、触れる者の価値観を揺るがし触発していく。周りに流されず主体性のある姿勢と失敗を恐れず困難に立ち向かう勇気。それこそが主題。物語としての起伏を描きつつも、成功とも成長とも無縁のところで唯一無二のカリスマ「美音子」という人物を描いたのが第二部だったと思う。逆にそう考えなければ、ストーリーよりもキャラ立てに比重を置いた作りに合点がいかないともいえる。
細かいことをいえば第二部が中継ぎを占める場所に位置するためか、第一部からの伏線の回収と新たな伏線張りも少々地味だったように思う。たとえば、第一部のラストでそれらしく登場した大神のネックレスは、本人確認程度の意味合いでしかないようだ。新たな伏線張りもあったのだろうが印象に残っているものは殆どない。気になったのはひったくり犯とのやり取りで見せたおばけの挙動か。(おばけに肉体があるのかという疑問はこの際無視して)弱るおばけに肉体的な衰弱以上のものを感じた。このときの霊力(?)の使いすぎがひびき、姿を現し続けることが出来なくなったのかもしれない。この理屈でいけば、おばけの不可視は美音子の成長とは関係ないということに。個人的な解釈と妙に辻褄が合うのでこの方向でいくことにする。
次回の予告を見ると次の主人公は「日本一の働き者」だそうだ。「落ちこぼれ」シリーズの主人公が捻くれ者から前向き、働き者と徐々にグレードアップ。何処までを「落ちこぼれ」と定義するのかという問題。主人公の勘違いによるラブコメ的すれ違いもパターン。次回は「雛子(加護)−おばけ」ラインとみた。雛子の勘違いが洋館に纏わる因縁のそもそもの発端となるのか。

*1:周囲の期待に沿う(依存)ことでしか自分を保てない優等生(長女・次女)。困難から目を背け、自分を誤魔化しながら日々を過ごす劣等生(大神・紺野)。