ミニモニ。でブレーメンの音楽隊 第十回

犬塚家に何も貢献することのなかった雄鶏(太郎)。その末路に自分の姿を重ねあわせ、それまでの明るさが一変して厭世的に・・・という設定は少々強引だと思った。自宅療養の日々を過ごすにつれ徐々に心がすさみ、この事件が決定打に!という流れなら納得するが。性格が一変する動機付けにしては弱すぎる。核心部分だけに少し気になった。
物語構造の話。「雛子−健志」の関係は、大雑把にいって第一部での「灰谷−ちよの」のそれに当て嵌まるように思う。物語の進行に伴い、主人公と脇役の救済関係が変化してきているのではないか。第一部は語るに及ばず。第二部は、主人公(美音子)が脇役(長女と次女・大神と紺野)を救済した物語だったと読み取ることも出来ると思う。美音子に救済される(成長する)必要性が殆どなかったからだ。しかし第三部、雛子に至っては、救済される(成長する)必要性を微塵にも見出せない。どう考えても雛子は救う側にあり、救われる側にいるのは健志だ。第一部から救済の主軸が徐々にねじれていき、第三部で遂に逆転してしまったように思う。それに伴い、脇役の物語内容に占める重要度も飛躍的に増してきている(だからこそ第二部は、脇役(大神と紺野)が主人公(美音子)にぶら下がる形で物語を締め括ることが出来なかったのかも)。第三部における健志の役所は主人公雛子に勝るとも劣らないポジションにあり、主眼はむしろ健志の方にある。ここではじめて、冒頭に繋がる道筋が出来上がったのだと思う。
つまりは、第三部の主人公は(象徴的に)ハーモニカになってしまったのだ(?)。ハーモニカは小さな楽器であるのに様々な音色を奏で、大勢の人々を幸せする。そして、健志にとって最後に残った希望であり、世間との唯一の接点でもある。何も出来ないひよこ(≒卵の産めない太郎)を愛でるように、雛子は自分は必要とされていない人間だと思い込み、心を閉ざす健志を暖かく包み込む。ありのままの健志を許容(社会復帰を強制しない)する唯一の存在が雛子。生きる意味を問う(ブレーメンに向かう)健志に、雛子はどのような道を指し示すことが出来るのか。