ポップジャム

ポップジャムつんくが辻と加護に送った手紙の中に、「ロック」という言葉がしつこい程に繰り返されていたのだが、これは一体どういうことだろうかと考えた。つんくの言動をいちいち追いかけているわけではないが、ある時期を境に何かにつけて「ロックやなあ」などと、規定外な言動またはそのように振舞う人物に対する褒め言葉というか、つんく語録としての決まり文句として使用されてきた経緯があるように思う。要するに自身の個性アピールのための意識的な振る舞いなわけだが、しかしタイミング良くもモーニング娘。の新曲『女子かしまし物語』の歌詞内容においても同様の傾向(個性の強要)が見られるので、その辺の妙な一貫性に関しては納得せざるをえないものがある。モーニング娘。に幾度となくキャラ立ちの重要性を説いてきたと想像されるつんくPであるが、その一方で、自分は何もかもを強引に「ロック」として片付けることによってタレントとしてのキャラ立ちを図ろうとするその安易さというか落差は愛らしくもありどこか切ない。


新曲で描写されている各メンバー像は厳密には本人に基づいたものではないらしいが、それはそれとしてもあまりにもわかり易い形での個性の押し付けが見られてあれこれ考えさせられる。高橋愛の訛りネタとか。飯田圭織のお局ネタとか。ここ最近の飯田の振る舞いは明らかに自分のポジションに立ち位置を求めているようなところがある。
たとえば当初の安部なつみは田舎者キャラで売っていたが、彼女の魅力は単に地方出身者であることにとどまらなかった。訛りネタは世間に認知されるための「つかみ」としては有効かもしれないが、現時点ではそれもないだろう。むしろ各メンバーの個性やキャラを引き出すための「つかみ」でしかなかったものが、それ自体が個性でありキャラとして重宝されるという倒錯的な傾向が見られると思う。「うたばん」で吉澤と矢口を強引にキャラ付けしたあたりからおかしくなってきているのかな。個性を「引き出す」のではなく「矯正する」といった傾向というか。
凡庸な語り口になってしまうけど、その弊害をいちばん多くこうむったのが五期メンバーだったと思う。現在の小川の暴走がその反動であるならば同情に値する。偶然なのだろうが、ゆとり教育として子供達に個性的でなければならないという強迫観念を植えつけた世の中の流れとリンクしているような気がする。逆に六期メンバーたちの自分らしさという核を持ちながら常に変化し続けるという様は個性というものの本質を感じさせる。個性という名ばかりの外面に縛られていないというか。田中れいな田中れいなでありながら、現在では当初のような協調性のない様子は見られない。


番組製作側が求める人物像がどんなものであるかということは、現在放映しているFNS全国一斉期末テストでの半素人であるテレビ局社員の扱われ方を観ているとよくわかる。テレビとして都合の良い形で容赦なく無神経に、些細な部分をも大げさに強調して笑いにしようとする。社会的に地位のあるテレビ局社員でありながらも無教養であったり変人であったりという落差を「笑い」とするのならある意味安心して笑えもする。しかしアイドルという何ら保障のない加護や辻がテストという言い訳の利かない状況で、無教養であるとか知性が欠如している様子を「笑い」とされても時として笑えないものがある。後味の悪さというか後ろめたさというか。特異な状況を楽しむという鑑賞方法もありだとは思うが、それも程度による。