ハロモニ日記

録りためていたハロモニを観ているのだが、何だろうこの感じは。

ラッキー7オーディション

モーニング娘。の次世代エースとなるべき人材の募集」と銘打っている以上、応募者が自信と能力を主張するのは当然のことだろう。しかしその当たり前の態度こそ「現行モーニング娘。を軽んじている」とファンの眼には映りかねないわけで、何だろうねこの袋小路は。何故わざわざ加入前からファンの思い入れを妨げるような真似をするのか。まあ無理やり理由付けするなら「悪い子」として売り出した六期の成功を意識しているといったところだろうか。たまに見かける「モーニング娘。でトップ(エース)を取ります」などという豪語にしても番組側の煽りに因るところが大きいわけで、つまり全ては演出という掌の上にある、…のだろうか。
つんくの放言はどう面白がっていいのかわからない。

地球戦士W

本来の目的も建て前もどこかへと消え去り、ロケ先でその場所その土地に特有の名物作りに挑戦するコーナーに。それはいいのだが、最近では徹頭徹尾その手の番組であろうとするようになり、ハロモニ独自の味付けが薄れてきているように感じる。平凡としか評しようがない。
そんな流れに連動しているかのような加護の振る舞いも気になる。たとえば、彼女は毎回行く先々で夫婦のなれそめについて質問しているが、それは本当に加護が聞きたいことなのだろうか。沈黙を作らないためであるとかこの場面ではこうするべきだといった意識が働いているように感じられるのだが。危険な傾向に陥っていると断言していいと思う。

出鱈目なハロモニ

まあ何というか、アイドル・タレントであるということは個性的であるからこそ成り立っている面があり、だからこそ昨今の芸能界のキャラ至上主義という極端な状況が生み出されたりもするのだと思う。ハロモニが混迷を極める番組だとしても、それが型に収まりきれないメンバーたちの個性を原因とするものなら何の問題もない。そして、個性的でありながら型に対応するのもよいことだ。しかし個性を抑えて型を重視するようなことがあっては困る。

加護亜依の女の子らしさ

「〜ですもの」なんていう女の子全開語録を残す紺野あさ美との付き合いが影響しているのか(←「二人ゴト」情報)、ここ数年、加護からは女の子らしくあることを念頭に置いた振る舞いが目に付く。その「女の子らしさ」とは「淑やか」を至上とする部類のもので、彼女本来の奔放さと両立させることは難しいように見える。これは彼女がテレビ的なアピールにおいてパートナーの辻に一歩遅れをとっている(ように見える)要因のひとつだと思う。もちろん技巧派の加護と突発型天然の辻という資質の違いが根底にあること、今の芸能界が安易に天然いじりに走ろうとする名司会者で溢れていることも無視出来ないが。
話は逸れるが、司会者としての技量というものは天然やリアクション巧者発見に嗅覚が利く程度のものではなく、扱いにくいそうな個性を持つ人物も含め満遍なく良い部分を拾っていくことが出来てこそだと思うが、現在の芸能界は刹那的な盛り上がりに走ってしまう名司会者が多くてモーニング娘。には結構辛い。

通俗と個性

思春期を迎えた加護が女の子らしくありたいと願う気持ちと、一部のモーニング娘。メンバーから感じられる現在の芸能界が求める形に対応していこうとする気負い。どちらからも下手をすれば自分らしさを失いかねない危うさを感じてしまう。これを通俗的な価値観に沿うことによってそれなりの成功を収めるか、自分らしさを貫いて唯一無二の存在でいるかという問題としてしまっては我ながら話を広げすぎか。
僕は「モーニング娘。の価値はわかる人だけがわかって貰えればいい」という考えなので、周囲を取り巻く状況に迎合してせっかくの個性を失わないでいて欲しいという気持ちでいる。人目を引かないズレた言動を得意とする高橋愛にしても、世間が彼女の良さがわかろうとしないのであればそれでいい。

蛇足

加護亜依ぼん」
前髪が決まらないだけで
分かりやすいほどへこむ
ショートケーキとか出てくりゃ
わかりやすく はい
「やった!」
女子かしまし物語

加護が抱く理想と現実とのギャップを残酷なまでに表現しているとの解釈もできるのだが。『女子かしまし物語』は石川梨華に優等生であることを強要してみたりと何かと問題のある部分が多い。幾度と無く自らの痛々しさをアピールしてきた石川のイメージは優等生とは真逆のものだと思うのだが。歌唱力のインパクトもあるわけで。それとも「人気者=優等生」ということなのだろうか。まあ真偽はともかく、これらのイメージの打ち出し方は間違っていると思う。つんくのメンバー観とはこの程度のものなのだろうか。