お笑いについて

現在進行中のお笑いブーム。芸人としてネタ披露に終始する初期段階(顔見せ期間)を抜け、テレビ的な素養を試される段階へ差し掛かっていると感じる。『笑いの金メダル』の迷走ぶりがいい例だ。フリートークや他の芸人との関係の中での立ち振る舞いなどに比重が傾きはじめている。こうして、突出した芸風や才能を認められない大部分の芸人は、いや、むしろ才能を認められるが故に、「半芸人・半タレント」として汎用性を求められていくことになるのだろうね。


さて、いきなり前提をひっくり返すようで恐縮だが、実のところテレビというメディアにおける芸人の位置づけが曖昧でよく分からない。というのも、僕がよく観かける番組内企画やコントでの中堅以下芸人の扱い方の殆どが、与えられた役割を台本どおり演じさせるだけで、喜劇役者で事足りるようなものに思えるから。そこに芸人としての主体性や必然性といったものを感じることはできない。むしろ専業役者という点において、芸人よりも喜劇役者の方が「テレビ芸人」に向いているのではないかとさえ思ったりもする。実際に役者が同じようなことをしたりもする。
更に『踊るさんま御殿』なんかを観ると、テレビ的な職能の境界線がどこにあるのか益々わからなくなる。そこでは役者と芸人、双方に役割が平等に課せられているように見える。本業を離れた素の振る舞いがちょっと面白い役者とちょっと演技も出来る芸人との違いは何処にあるのだろうか。肩書きだけなのか。同番組にでは弄り易いキャラクターと司会者の期待を察知する少しの要領が全てのような気がする。基本的に芸人と役者の違いはないように見える。
そもそも明石家さんまがテレビ芸人の象徴のような人物な訳で。故ナンシー関は芸人のあがりとは司会者になることだと看破したが、厳密には「芸人」ではなく「テレビ芸人」に適用される話だと思う。それは芸人を成り上がりの手段と見做している者に対する分析であり、真摯に芸の道を極めようとする先に司会者などあるはずがない。


以前も波田陽区に関して似たようなことを書いたが、テレビ的な出世の道と本来的な芸の道とがこうまで食い違ってしまうとは一体全体どういう因果なのか。テレビが主要メディアである現在、芸の本筋から逸れテレビ的な価値基準に沿う形で出世を望んだとしてもやむを得ない。そういった転向を責めることは少々酷であるように感じる。
他にも関根勤山口智充のように常識的な礼節に忠実であろうとする余り、つい笑いの中にもリアルな上下関係を持ち込んで観る者の気分を萎えさせてしまったり、相方に差をつけられた芸人が自暴自棄気味に陥りがちな駄目キャラ選択に漂う喩えようの無い悲哀、更には駄目キャラを芸風としつつも芸を離れたところでは常識人として自己を担保しようとする山崎邦正の例など、少し目を凝らせば笑いの中に全く笑えない要素を発見出来るので別の意味で笑えるという話。