「生首にきいてみろ」法月綸太郎 追記

ネットを巡回して色々と見えてきた。何故この作品が「このミス」で第一位をとるほど高く評価されているのか、何故わざわざあのような主人公に自らの名前を与えているのか。
まず評価について。本作はハードボイルド界の巨匠であるロス・マクドナルドの作風を取り込んでいるのだそうだ。もちろん僕はロス・マクドナルドを読んだことがない。その指摘を信じるとすれば、作者は一部の読者へサインを送っていたことになるのだろう。自分は本格ミステリについて深い造詣を持っていますよ、本格ミステリ的な手法を重んじていますよ、と。この作者はロス・マクドナルドをどのように解釈し、どのように作品へと練り込んでいくのか。本格ファンであることを刺激され、作品を読み解く新たな視点を与えられた一部の読者が、物語の完成度を超えたところに本作の魅力を感じたとしても何の不思議はない。
次に主人公の名前について。「法月綸太郎」とは島田荘司が与えたペンネームだそうだ。島田に見出された法月が、主人公の名前にするほど「法月綸太郎」に対し誇りと愛着を感じていたとしても、これまた何の不思議はないと思う。それは、本格ミステリへの確固たる拘りを感じさせもする。
つまり本作は、本格ミステリファンのための本格ミステリといえる。本格ミステリについての素養を持ち合わせない読者は全く想定されていないことになる。身勝手といえば身勝手だが、こうしたことは往々にしてある。たとえば『めちゃイケ』で表現される「お笑い」も一部のマニアに向けたものであることが多いし、このサイトのハロプロについての文章なども、いわゆるモーヲタ以外には見向きすらされないと思う。受け手を絞り込むことによって、効果を最大限に発揮させようとする部類のものだ。(なんだか自己正当化するようで恐縮だが)それはそれでいいと思う。パロディが究極のお笑いであると僕が考える理由もそこにはある。
ただそれは仲間内に向けられたものであるため、閉鎖的で一般的ではないということは自覚すべきだと思う。ミステリというジャンルの間口を広げるには適さない。「このミス」が内輪で盛り上がることを目的とするのなら、それもいいだろう。それほど熱心なミステリファンではない僕は、来年から「このミス」を参考にすることを止める。ただそれだけの話だ。僕は面白い「ミステリ」を求めているのではなく、面白い「物語」を求めているのだから。

☆☆

お気に入りの作家、乙一にしてもそうなのだが、「ミステリ」とはその特有な制約によって、物語の完成度を犠牲とすることが多いように感じる。奥深い物語と精緻なトリック、二つの異物の融合はそれほど困難な作業なのだろう。ただ個人的な願望を言えば、物語を重視して欲しいと思う。半可通の意見でしかないのだが、本来的なミステリとは謎解きの側面が強いと感じる。極論すれば「謎解き」というパズルがまずあり、そこに物語がくっ付いているようなものだ。謎解きが主としてあるように感じる。しかし小説である以上は、物語が主としてあって欲しい。物語を壊すような謎解きを用いてまで「ミステリ」であることを僕は求めない。…しかしまあ、その困難への挑戦がミステリ作家としての自負であり、僕の発言がモチベーションを著しく下げる行為であることは理解しているのだけどね。