娘。ドキュメントと矢口の脱退

マジカル美勇伝』も無事観終わり、現在は『娘。ドキュメント』に手をつけ始めている。この番組、例によって勘違いした矢口の問題発言が満載で、いずれ全面批判を展開しようと考えていたのだが、その矢先、矢口がモーニング娘。を脱退したとか。例によって『Mステ』でその事実を知る。安倍の謹慎に続き『Mステ』サプライズには驚かされる。

矢口の恋愛報道

矢口の恋愛発覚記事を読む限り、アイドルとしての職業倫理がどうこうというよりも、開き直るでもなくしらを切りとおすでもなく、いざという事態が来ることなど全く想定していなかったような矢口の体たらくが何よりも物悲しい。加えて矢口の立場を思いやったつもりで、あっさりと交際を認め事態をより一層深刻なものとする間抜けな彼氏の存在。以上二点からこの問題について真正面から批判をぶつけ難いように思う。
また矢口は公式HPで脱退理由としてモーニング娘。のリーダーとしての資格、アイドルとしての自分自身の責任を挙げているが、アイドルとしての責任云々はともかく、モーニング娘。のリーダーとしての資格とは何なのだろうか。これは常々抱いていた疑問とも結びつくので、この機会に『娘。ドキュメント』を軸に考えてみたいと思う。

娘。ドキュメントの重苦しさ

娘。ドキュメント』はメンバーが本音で語るとの宣伝通り、メンバーの生の声が見聞き出来て大変興味深い。だが反面、少々重苦しくもある。飯田圭織の卒業ドキュメントに至っては数週に渡り放映されている。最後のオリジナルメンバーである飯田の卒業を通じてモーニング娘。の軌跡を振り返り、視聴者現存メンバー共々、「モーニング娘。」というグループに対する思い入れを強化しようとする試みなのだろう。不条理な卒業が連続した時期に端を発するこの手の企画は年々過剰の一途を辿り、最近では少々行き過ぎなところまできている。

ASAYAN的なものへの凝り固まり

矢口は『ASAYAN』時代のグループ内競争を無批判に美化してみたり、リーダーであること先輩であることに異常なまでに責任感を抱く。確かに『ASAYAN』時代は互いをライバル視することによって活気付いてはいた。しかしその一方で信頼とは程遠いギスギスした間柄であったことを忘れてはいけない。得るものがあれば失うものがある。そこを考慮しなければ矢口発言は単なる無いものねだりでしかない。矢口の求めるものとは仲の良さを引き換えにしてまで手に入れる価値のあるものなのだろうか。僕にはそうは思えない。
どうにも矢口や四期の話を聞いていると、仲が良いこととライバルであることの二つを対立項目として捉えているようだが、何故身近に存在するω(ダブルユー)を見ようとしないのか。そこには信頼を土台にライバルを越えた次元で互いを高め合う関係性が構築されている。矢口たちの考え方では精々「後浦なつみ」や「ごまっとう」が関の山だ。1+1を2以上にすることは難しい。もっと柔軟なものの見方が必要のように思える。

ASAYAN娘。ドキュメントの類似性

そもそも『ASAYAN』自体が碌なものではない。過度に対立意識を煽るなどして出演者を極限へ追い込み、その姿を見世物としていた録でもない番組だった。出演者の精神状態よりも番組としての見栄えを優先していたように記憶している。
これについては『娘。ドキュメント』で放映された六期選考合宿の裏側と、当時放映された内容とを比較してみるといいだろう。本放送では六期候補の三人を今風の無感動・無気力で礼儀知らずの若者として映し出し、講師の面々と衝突していく様を緊迫感をもって描いていた。しかし今回明らかにされた六期選考合宿はどうだ。そこには夏先生に内なる情熱を伝えられず、自分の不甲斐なさに涙する亀井の姿があった。三人には上手く表現することが出来ないだけで、モーニング娘。になりたいという熱意も合宿に対する意気込みも確かにあったのだ。カメラは真実を捉えていたにもかかわらず、意図的にそれを隠蔽していた。つまりは番組演出の名目で、彼女達三人の印象を不当に貶めていたことになる。その上であの追い込みとは…。
そして恥知らずにも今頃真相を明らかにしたということは、そこに今回の番組演出の意図があると見るのが自然だろう。それは出演者を思い遣ってのことではなく、製作側の都合でしかない。リーダーだなんだと祭り上げられ、煽られるがままに不用意な発言を量産する矢口は今すぐ目を覚ました方がいい。

モーニング娘。という名の桎梏

メンバーに語りかけた言葉全てに意味があったのだと言う飯田(本当か?)。モーニング娘。を語る際、中澤からは持ち前の威勢の良さが消え、酷く抑制の利いた口調となる。矢口はご覧の通りの迷走ぶり。ここまで三人の言動を狂わすものとは何なのか。それはモーニング娘。の歴史であり、そこからくるリーダーという名の重圧ではないかと思う。
特に四期以上のメンバーに言えることなのだが、「歴史」「モーニング娘。魂」「進化」「ハングリー」「ライバル」、これらの美名に惑わされているように見える。以前は実質を伴うものだったかもしれないが、今では不条理な卒業や理不尽な番組作りに後付で意味を与えるものとしか思えない。声高に「ハングリー」だ「ライバル意識」だと連呼してみたところで、「モーニング娘。」からは競争意識を育み受け止める土壌が失われて久しく、本体での争いから溢れ出た者を救い上げていた各ユニットが休止状態ある現在、何処でそれを実践すればいいのだろう。かえってメンバーの戸惑いを招くだけではないのか。
飯田のオリジナルメンバーとしての重要性とリーダーとしての業績を称えれば卒業が正当化されるのだろうか。またテレビ側の要望に合わせた立ち振る舞いとそれに即した個性形成が「モーニング娘。魂」なのだろうか。メンバー側の視点から離れ感傷を排してみると、それは精神性とか志というよりも、望まぬ現実を受け入れ適応するための方便とも解釈出来る。現実問題としてモーニング娘。の充実と発展を主体的に考えるならば、良かった時代にすがることでもなく、断続的で形ばかりの進化論とやらに不満や迷いのはけ口を見出すことでもない。本業に適う形で活躍の場を広げることにあると僕は考える。矢口は下に向かって精神論を唱えるよりまず先に、上に向かって各ユニットの復活を進言すべきだった。

そんなわけで

矢口がリーダーの資格なしというなら、リーダーを降りればいいことだ。歴史あるモーニング娘。のメンバーとして相応しくないというなら、モーニング娘。を解散すればいい。そして同じメンバーで新しいグループを組み出直せばいい。枠でしかない「モーニング娘。」なるものに囚われて矢口がメンバーから外れる必要はないと思うのだが。