コメントの補足として

ASAYAN』時代のように、新曲で少しでも有利な役回りを獲得するため、努力その他を拠りどころとした血で血を洗うメンバー間抗争があってもよいと僕は考えている。また一方で、前近代の身分制度のように、加入当初から期待のされ方に歴然たる差が存在していても仕方がないと考えている。ふたつともモーニング娘。という商品を高く売りつけるための手段と成り得るならば、という条件付きではあるが。
精神を消耗させてまで新曲パートの争奪戦に賭ける姿は観る者にドラマを感じさせるだろう。他方で、揺るぎのない可能性を感じさせる新人、または極端に要領の悪い新人が、周囲の期待に応えるべく成長していく姿も、これまた観る者にドラマを感じさせるだろう。こうあって欲しいというファンとしての勝手な願望はあるが、モーニング娘。の存続を考えた場合、そういった大義名分の前にある程度の妥協もときには必要であることくらい僕でも了解できる。モーニング娘。はそうして現在の地位を築き上げてきたのだから。
だが、これらは意図的に作り上げられたフィクションであり、起こるべくして起きたことではない。それを忘れてはいけない。『ASAYAN』的役割を持つ番組のない現在、メンバー同士の競い合いをドラマ化する場が存在しない。まして、少し前までモーニング娘。のセンターには石川が君臨していたのだから、競争原理による実力主義というフィクションを成立させるにはいまいち説得力に欠ける。そのような状況下で、『ASAYAN』時代のグループ内闘争を復活させても、あまり得るものはないのではないか。以前のように将来の展望と成り得ず、更に内輪だけで完結してしまっては、とてもじゃないが妥協の余地は見出せない。
実力と外見、双方を併せ持つ者だけを寄り選り、ハロプロの威力を示すこと。それが今回のシャッフルの目的のひとつだと仮定してみる。一見するとこれは、外へのアピールと内への発破かけを兼ね備えた合理的なやり方に思えるかもしれない。しかし、本当にそうか。競争と成長のドラマ、どちらの手順も踏まえず、つんくの鶴の一声によって勝者と敗者が選り分けられる。この酷薄なまでに独善的で不透明な乱暴さは、モーニング娘。の向上を図るという大義を理由に、小川を切り捨てるべきだとする過激論者にも繋がる、とても恐ろしい考え方であるように僕には思える。
劣等生のレッテルを強要され加入した紺野の例が示すように、またオリジナルモーニング娘。平家みちよとの争いに敗れた敗残兵の寄せ集めだったように、新メンバーの選抜基準が常にエース候補生の発掘にあったわけではない。時代によって売り出しコンセプトに変化があったとしても、モーニング娘。はいつでも多様なキャラクターを許容する懐の深さを持ち、またそれ自体、モーニング娘。モーニング娘。足らしめていた重要な要素であった。小川への批難は、彼女の自堕落な言動を考えればもっともなことだ。しかし、この批難はときに排除論にまで過激化する。そうなってしまうと、小川ひとりの問題では収まらなくなる。モーニング娘。の基本コンセプトを問い直す根源的な批判となるからだ。
小川を切り捨てることにより、モーニング娘。という商品を高く売りつけるための手段と成り得るならば、個人的に納得はいかなくとも、一考の余地はある。しかし、そうして不純物を取り除き、透度を高めた末にできあがるのは、「ごまっとう」であり「後浦なつみ」のように、非常に淡白な色合いを持つグループではないだろうか。そして、「ごまっとう」と「後浦なつみ」は商品として成功したと言えるのだろうか。この二つのグループが、個々のソロ活動を超えて成功を得たとは僕には思えない。だから、小川を切り捨てることは、一部の個人的な感情を満足させる以外、何のメリットもないと考えている。むしろモーニング娘。の特色を消し去る愚行なのではないか。
蛇足になるが、多くの小川排除論者の主張がひとつの論として成立していないのは、グループとしての成功論と個人的な願望との混同があるからだ。願望は僕にもある。だから、願望それ自体を述べることが悪いとしているわけではない。問題は、願望その他、ファンとしての体面や自尊心をモーニング娘。へ投影し肩代わりさせ、芸能界での成功を強要している点にある。こうなってしまえばもはやファンというより、支持団体や支援団体といった方がより適切であるように思うのだけど。


今回の厳選シャッフルについて、それが何を意味するのか、現時点で読み取ることはできない。単に「ごまっとう」の系譜に連なるその場限りのお祭りなのか、それとも、これから始まるモーニング娘。を含めたハロプロ全体の方向転換、大波乱の前触れなのか。
信頼に裏打ちされた仲のよさを好む僕としては、パフィーやケミストリーも、実は好きだ。それはどうでもいい話だったが、モーニング娘。在籍中メンバー間の縦横の繋がりに多大な貢献をした石川は、ただその一点だけでも肯定できる存在だ。そして数ヶ月か数年後か、後に石川の卒業を振り返ってみたとき、彼女の存在が代えがたいものだったと感じそうな予感がして、今回のシャッフルを快く受け入れることができないのだ。