誤字について

Yahoo! JAPANで「小川真琴」を検索すると…→http://search.yahoo.co.jp/bin/search?p=%BE%AE%C0%EE%BF%BF%B6%D7&fr=top&src=top&fr=top
何故か検索語句である「小川真琴」を差し置き、「小川麻琴」を含むページが上位に。では「小川真琴」とは「小川麻琴」の誤表記でしかありえないのかと思いきや、そうではない。「ページとの一致」項目を下に見ていくと、視覚芸術家(ビジュアルアーティスト)小川真琴さんのHPを確認出来る。しかも七番目にしてやっと。あろうことか、正表記「小川真琴」が誤表記「小川真琴」に優先順位で遅れをとっているのだ。PVや言及回数を機械的にカウントしているためだと推測するが、疑問は残る。語句のネット上での動向を計るという観点からは一概に否定出来ないかもしれないが、検索の本来的な意義は確実に損なわれていると思うのだが。現に僕は正誤確認のため「小川真琴」検索し、そのヒット内容によって誤字ではないと判断した。人名表記の正誤確認が検索の本来的な意義かどうかは議論の余地があるとしても、耳目をひいたもん勝ちという世の風潮を示しているように思えて如何ともしがたい。

お笑いについて

現在進行中のお笑いブーム。芸人としてネタ披露に終始する初期段階(顔見せ期間)を抜け、テレビ的な素養を試される段階へ差し掛かっていると感じる。『笑いの金メダル』の迷走ぶりがいい例だ。フリートークや他の芸人との関係の中での立ち振る舞いなどに比重が傾きはじめている。こうして、突出した芸風や才能を認められない大部分の芸人は、いや、むしろ才能を認められるが故に、「半芸人・半タレント」として汎用性を求められていくことになるのだろうね。


さて、いきなり前提をひっくり返すようで恐縮だが、実のところテレビというメディアにおける芸人の位置づけが曖昧でよく分からない。というのも、僕がよく観かける番組内企画やコントでの中堅以下芸人の扱い方の殆どが、与えられた役割を台本どおり演じさせるだけで、喜劇役者で事足りるようなものに思えるから。そこに芸人としての主体性や必然性といったものを感じることはできない。むしろ専業役者という点において、芸人よりも喜劇役者の方が「テレビ芸人」に向いているのではないかとさえ思ったりもする。実際に役者が同じようなことをしたりもする。
更に『踊るさんま御殿』なんかを観ると、テレビ的な職能の境界線がどこにあるのか益々わからなくなる。そこでは役者と芸人、双方に役割が平等に課せられているように見える。本業を離れた素の振る舞いがちょっと面白い役者とちょっと演技も出来る芸人との違いは何処にあるのだろうか。肩書きだけなのか。同番組にでは弄り易いキャラクターと司会者の期待を察知する少しの要領が全てのような気がする。基本的に芸人と役者の違いはないように見える。
そもそも明石家さんまがテレビ芸人の象徴のような人物な訳で。故ナンシー関は芸人のあがりとは司会者になることだと看破したが、厳密には「芸人」ではなく「テレビ芸人」に適用される話だと思う。それは芸人を成り上がりの手段と見做している者に対する分析であり、真摯に芸の道を極めようとする先に司会者などあるはずがない。


以前も波田陽区に関して似たようなことを書いたが、テレビ的な出世の道と本来的な芸の道とがこうまで食い違ってしまうとは一体全体どういう因果なのか。テレビが主要メディアである現在、芸の本筋から逸れテレビ的な価値基準に沿う形で出世を望んだとしてもやむを得ない。そういった転向を責めることは少々酷であるように感じる。
他にも関根勤山口智充のように常識的な礼節に忠実であろうとする余り、つい笑いの中にもリアルな上下関係を持ち込んで観る者の気分を萎えさせてしまったり、相方に差をつけられた芸人が自暴自棄気味に陥りがちな駄目キャラ選択に漂う喩えようの無い悲哀、更には駄目キャラを芸風としつつも芸を離れたところでは常識人として自己を担保しようとする山崎邦正の例など、少し目を凝らせば笑いの中に全く笑えない要素を発見出来るので別の意味で笑えるという話。

石川日記

藤本の水着グラビアが掲載されているFLASHの目次頁に美勇伝の写真。そこには物凄い顔力(かおちから)を発揮する石川の姿がある。堂々と正面を見据え、高揚と力強さを感じさせる面持ちで、ともすれば威圧的とも受け取れる。ときおり石川はこのような顔つきになるが、ここ数ヶ月は変身の頻度が高くなっているような気がする。
石川と特定メンバーとの写真写りには気になる傾向がある。真顔で相手の肩に手をまわし、石川姉貴です!といった具合のものがそれで、他のメンバーとは異なり、おどけてやっているようには決して見えない。石川の奥深い部分から滲み出る体育会系的な性格がそう思わせるのだが、その一端は『マジカル美勇伝』の中にも見受けることが出来るように思う。
最近は録りためていた『マジカル美勇伝』を消化しているが、そこには必要以上にカメラを力強く見据えたり、少々前のめり気味な仕切りを見せたりと、誰に憚ることなくリビドーを全開にさせる石川さんの姿が。
加入当初から彼女は「モーニング娘。のへそ」あたりで年上という理由だけで無謀にも辻加護を仕切ろうとしていた。タンポポラジオ「オソロ」でも似たような言動をしていた。自然とそんな記憶がよみがえる。社会性や各種能力といったものは成長するが、生まれ持った性格はそうそう変わるものではないらしい。むしろ、成長と経験によって自信を得た現在、その性格はより濃く発現しているようにも思える。「チャーミー石川」に倣って名付けるなら、「マッチョ石川」とでもいうべき性格か。どうでもいいことだが、「マッチョ石川」のときにも小指が立つのか気になる。

石川の謎

一方、肉体的な特徴としてはしなやか且つ多くの意味において大胆で、ハロプロ内では松浦と共に独特の存在感を示しているように感じる。ただこれは松浦にもいえることなのだが、自分の振る舞いが他者の目にどのように映っているのか、そういったことをどこまで考えているのか判別しにくいところがある。
たとえば得意のY字バランス。『岡女。』でリクエストされるまま何度も応じていた場面が印象深い。これを矢口がするのであれば何の不思議もない。老獪な矢口にはそれが意味するところが理解出来るからだ。恥ずかしがる素振りを見せつつも期待に応えるだろう。しかし石川の場合、どこまで相手の意図を理解しているのかいまひとつ分からない。
『THEマンパワー!!!』の挑発的なダンスではどうか。石川からは躊躇というものが感じられない。比較対照としては申し訳ないが紺野。ダンスにいまひとつ切れがない。恐らくは恥じらいを感じているのだろう。両者を見比べると、石川のダンスは羞恥という余計なリミッターがない分、ダイナミックで堂々とした魅力に溢れているように感じられる。


ぶっちゃけてしまうと、自分のダンスが性的なイメージを喚起させるというところに思い当たっているのかいないのか、そこが気になってしかたがない。目立つことに関して誰よりも貪欲な石川のこと、確信的に行っていたとしても不思議はない。しかし下ネタ嫌いだったようにも思うので、性質上の問題からあり得ないといえばあり得ないような気もする。ただ常識的な見方をすると、この現代社会において、二十歳になった娘が性的なことに全く思い当たらないことの方があり得ないような気もする。


どちらにしても自己表現やキャラ立ちの一環として、それが意味するところを深く考えず性的アピールに走るようでは危険なんじゃないの、とは思う。石川を目標とするキッズあたりが真似する可能性もないとはいえないだろうし。ここは新リーダーの矢口さんの初仕事として、メンバーに対する性教育を期待する。まあしっかりと認識したところで、自らの短所でさえキャラ立ちの材料としてしまうモーニング娘。にとって、この程度の性的な部分の切り売りに今更躊躇するとは思えないのだが。ある意味では頼もしいともいえなくもない。

自らメジャーに背を向ける飯田

飯田女史のメジャーであることに見切りをつけたかのような徹底した振る舞い。そこに勝手な意味合いを見出すとするなら、売れるためには手段すら選ばない節操のなさ。それに対する彼女なりの意思表示だったのではないかと思ったりもするが、我ながら考えすぎだ。彼女の採った態度がモーニング娘。全体にとって悪い方向へと作用したこともあっただろう。ただ飯田圭織モーニング娘。時代の後藤真希の姿がダブって見えるので不思議だ。

マンパワー日記

古い話になるが、以前に出演した歌の特報大辞典で矢口が「(東北楽天ゴールデンイーグルスの応援団に)選ばれたからには頑張ります」とコメントすれば、ミュージックステーションでは「メンバーに野球の知識が全くなく、現在勉強中です」と石川。悪気がないことは重々承知している。
加えて、本日のワイドショーでは東北楽天ゴールデンイーグルスに所属する選手名を、一人として挙げることの出来ない吉澤の姿が。残念ながら勉強中でもなかったらしい。楽天イーグルス側のしつこいまでの「合コン発言」もどうかと思うが、モーニング娘。側の全く乗り気のうかがえない上辺だけの応援もどうなのか。
一人の例外もなく、モーニング娘。は野球に関心がないらしい。根本的な問題として、「年頃の娘さん」と「野球」、この二つに接点を求めようというのが無理な話だ。両者は限りなく平行線に近く、はじめからこうなることは予想できたはず。ただ、そんなときのために世の中には社交辞令という便利な慣習があるわけで、「楽天は個人的にも応援してました」とか、「常々、野球には興味がありました」とか、当たり障りのない応答をすればいい。それで全てが上手くいく。日本という国はそういう仕組みになっている。でも、彼女達はそうしない。歌の特報大辞典は録画で、Mステは生放送だが台本の存在を感じる番組。何とでも修正が利きそうなのに。不思議だ。
そこでこう推測する。実は、メンバーが楽天に辛くあたるところまで含めて、『THEマンパワー!!!』なのだと。これは楽天側の「合コン発言」への意趣返しなのだ。聞くところよれば、つんくに関しても三木谷社長に名前を言い間違えられた因縁があるらしい。つまりは、彼女達は遠まわしに「野球選手なんか眼中にないわ」と意識的に主張していたのだ。そう考えれば全て納得がいく。しかしこれは逆から言えば、そうとでも考えなければ楽天側に対して失礼が過ぎるということでもある。特に面白いことを言ったつもりになっている石川あたりは、痛快なまでに不謹慎だ。


冷静に考えてみれば、体育会系のプロ野球選手にとっての「合コン発言」は、全てが下心を出所とするものではなく、「合コン」に誘いたいほど魅力的であるという素朴な褒め言葉なのかもしれない。仮に全てが下心だとしても、応援歌としてあのように挑発的な腰つきを見せられた後では理性のコントロールもつき難いというもの。無性に男心を代弁したい気分にさせられたりもする、何やら複雑な出来事に思えた。

THEマンパワー!!!

現在、各歌番組でお披露目中の新曲。東北楽天ゴールデンイーグルスの公式応援歌でもあるそうで、正直、その手の曲であると勝手に思っていた。何もせずとも世間は楽天応援ムードにある中で、何故わざわざモーニング娘。まで応援に名乗りを上げる必要があるのだろうか。あるとするなら、応援とは別の理由からだろうと。
また旧態依然とした球界体制に挑む姿勢を見せる楽天は、ロックに見えないこともないので、無類のロック好きであるつんくが飛びつくのも無理はない。しかしだからといって、楽天人気に便乗する形で新曲を発表してしまっては、はたしてその行為をロックとすることが出来るのだろうか、とも考えていた。
以前からモーニング娘。は環境問題や何やと長い物に巻かれ上手なところがある。それを悪いことだとはいわないが、ロックとはだいぶかけ離れている。こういったことが続く限りは、モーニング娘。の先行きも安泰なのだなと思ったりもするが、何やら釈然としないものを感じる。


と、ここまでが事前の印象なのだけど、『THEマンパワー!!!』という曲は予想に反して凄かった。実際に歌番組での新曲披露を観ると印象は一変。想像していた無難さとは真逆の、おかしな曲調と意味不明の歌詞、振り付けで構成される、常人の理解を超えた曲だった。よくもまあこんなやりたい放題の怪曲を応援歌として差出したものだと半ば呆れつつも感心した。楽天人気に便乗する謙虚さは微塵も感じられない。そこからイメージされるのは、唖然とする三木谷社長に目もくれず、明後日の方向に全力疾走するつんくの姿。今回ばかりはつんくのロック魂を感じることが出来たような気がする。


僕は『THEマンパワー!!!』という曲を手放しで賞賛している訳ではなく、その完成度についてはまだ懐疑的に捉えている。これは漫画でもアニメでも小説にも当てはまることなのだが、「ロボット」だったり「泣き」だったり「純愛」だったり「ミステリ」だったり「エロ」だったりと、消費者に関心を持たせる要素を作品に詰め込むことは特に問題はない。しかし、それらが作品の土台から剥離していると感じるようでは駄目だと思う。極論すれば、全く必然性のない「エロ」や「泣き」があってもいいと考えている。要は、全てを統制する強制力や魅力のようなものが作品の根底に存在しているかどうか。要素だけで成り立っているような作品は論外だ。
このような視点で『THEマンパワー!!!』を眺めてみると、一番の難所となるのはあの卑猥とも取れる腰つき。比較対照として同じような腰振り要素を持つ『恋愛レボリューション21』が挙げられるが、『恋レボ』はその総合力の高さから腰つきの卑猥さなんて全く問題にならなかったと思う。むしろ曲の魅力の一部として取り込んでしまっているように感じる。名曲とされる所以だろう。
『THEマンパワー!!!』はなかなか興味深い曲なのだけど、『ラブマシーン』止まりかなと思う。『恋愛レボリューション21』までは届かない。各要素は少々散らかり気味で、纏まりに欠けているように感じる。前衛的な楽曲と分類するなら評価も違ってくるかもしれないが、それではまた意味合いも変わってくるだろう。それにしても、みなぎったり、ものごっつかったり、素晴らしかったり、挙句に僕らだったりする「マンパワー」って何なのだろう。

松本人志プロデュース・絶対に笑ってはいけない一泊二日の旅

年末に放映されていた『ガキの使いSP』。浜田チームの三人(ダウンタウン浜田・ココリコ田中・山崎)は一泊二日の温泉旅行へ連行される。これは罰ゲームなので、道中の至る所で待ち受ける笑いの誘惑に耐えなければいけない。笑うと容赦なく鞭で尻を打たれてしまう。


何をやっても面白い状況は確実にある。葬式などがそれで、厳粛な空気が醸し出す緊張感が些細なきっかけで裏返り、箸が転げても可笑しく感じるようになる。この番組では「笑う→尻打ちの刑」とすることで同質の緊張感を作り上げている。尻打ちの恐怖に怯える浜田チーム三人の姿は、言葉よりも饒舌に「笑うこと」がタブーであると視聴者の感覚へ訴えてくる。その空気だけで既に半笑いになる。
おかげで何が出てきても大爆笑。たとえばスターウォーズのテーマと共に番組スタッフが(ぎりぎりそれとわかる程度のチープさで)C-3POR2-D2に扮して登場する場面があった。そんな内輪ネタにも思わず笑ってしまうのだが、何よりも笑いを堪えている浜田の姿が面白くてしょうがない。結局堪えきれず笑い出し、尻を打たれる浜田の哀れな姿に僕も大爆笑。番組が終わるまで笑い続けだった。


ここで繰り広げられるギャグやコントの大半は、はっきり言ってくだらない。だが、くだらないのに何故か笑えてしまう。繰り返しになるが、それはひとえに「笑うこと=タブー」とする状況設定の妙にあると感じた。話術やコントの筋立てといった表面的な部分に重きを置く作品ではなく、「如何に笑いを誘発し易い状況を作り上げるか」という土台部分に重きを置く作品なのだろう。つまりこれは、笑いを堪える浜田チームの姿までも「込み」としたシチュエーションコメディであるといえる。「笑ってはいけない」とする突拍子もない制約も、罰ゲームとすることですんなりと受け入れることが出来るわけで。一見すると無作為で成り行き任せのドキュメントに見えるが、よく目を凝らせば入念に作り込まれた痕跡を見出すことが出来る。
筋立てや技法を重視する「笑い」はときに理が勝ち過ぎ、感覚的な「笑い」に結びつかない場合がある。しかし状況作りを重視する「笑い」は端から人間の根源的な部分に訴えかけている。最もわかり易く最も共感し易い。もちろんそこに至るまで数多くの試行錯誤を経ていることは疑いようがないが、視聴者はそこに少しも思いを馳せることなく気軽に楽しむことが出来る。観る者の「笑い」の素養を問うことなく、誰でも無条件で楽しむことが出来るという意味において、この『ガキの使いSP』は間違いなく最高峰に位置付けされるお笑い作品であると思う。

余談

この作品を成立させるにあたり、状況作りの要である緊張感の維持が難点となるが、さすがに一泊二日の長丁場では難しかったようで、途中浜田チーム同士で笑わせ合う場面が観られた。尻打ちの恐怖に慣れたのか芸人としての血が騒いだのか単なる仲間割れなのか、とにかく趣旨があやふやになった瞬間。主に山崎邦正が足を引っ張っていた。『ガキの使い』本放送においても彼の存在は常にジョーカーであるように思うがどうなのだろう。

細木数子について

この人の本業は占い師らしいが、テレビで観る限り訳のわからないことになっている。
彼女のやり方を大雑把にいえばこうだ。まず開口一番、本人しか知り得ない裏情報を言い放つことによって主導権を確保すると共に自分は何でも知っているという印象付けを行い、その後に続く出鱈目な放言に対する反論を強引に封殺し、力技で相手を納得させてしまうというもの。しかし、これって「占い」なのか。僕にはディベート術にしか見えないのだが。定番台詞となっている「〜歳になったらあんた自殺するわよ」、「〜年後あんた芸能界辞めているわよ」といった物言いが百歩譲って予言(=占い)的であるとしても、何人にも使い回している時点でNGだろう。もし個々人に対応したものではなく形式として使い回されているものが「占い」だとするなら、それはおみくじレベルでしかないと思う。
以上が対芸能人様式。対素人様式はこれとは若干異なる。対芸能人のように下調べが出来ない(意味がない)ためか、出会い頭の一発を放つことは殆どない。相手の話を聞くことを前提とした対処方式が主であるように見える。そしてこれはどちらの様式にも共通することなのだが、殆どの相談を最終的に説教へと落とし込む。そこで語られるのはまた古めかしい道徳論で、簡単にいえば不幸の原因は自分自身にこそあり、心がけ次第で人生はどのようにでも開けるというもの。たとえば夫の素行不良に関する相談には、妻は夫に尽くし少々の理不尽には寛容と忍耐の心で臨めと教唆する。そうすれば事態は好転する、のだそうだ。前時代的な女性像を奨励する傾向も見られる。
占いの責任を相談者に丸投げすることが占い師の常套手段だとしても、その裏付けを現在では廃れて久しい価値体系に頼っている時点で説得力など期待できるはずもない。どうしてもその価値体系で押し通したいならばそれなりのお膳立てが必要であると考える。具体的には相談者を一種の催眠状態に追い込む舞台装置のようなものが必要なわけで、それは相談者を細木屋敷に誘い込むことであったり講習会に通わせることだったりするのだろうけど、テレビという第三者目線が介在する場においてはどうすることも出来ない。


まあ対芸能人においては無内容の「占い」だとしても相談する側も話題性という意味でメリットがあるわけで、番組がエンターテイメントであることを目指している以上は上記のような指摘が的外れである可能性もある。しかしそのような利害関係とは無縁のところにいた若手俳優(?)杉浦太陽に対しても「あんた30歳で自殺するわよ」と他の芸人と同じ調子で恫喝に及んでしまったことは批判されるべきだと思う。真に受けていて可哀想だった。そういったことは仲間内だけですればいい。


(18:30から番組が始まるので急いで更新。乱文失礼)