娘。ドキュメントと矢口の脱退

マジカル美勇伝』も無事観終わり、現在は『娘。ドキュメント』に手をつけ始めている。この番組、例によって勘違いした矢口の問題発言が満載で、いずれ全面批判を展開しようと考えていたのだが、その矢先、矢口がモーニング娘。を脱退したとか。例によって『Mステ』でその事実を知る。安倍の謹慎に続き『Mステ』サプライズには驚かされる。

矢口の恋愛報道

矢口の恋愛発覚記事を読む限り、アイドルとしての職業倫理がどうこうというよりも、開き直るでもなくしらを切りとおすでもなく、いざという事態が来ることなど全く想定していなかったような矢口の体たらくが何よりも物悲しい。加えて矢口の立場を思いやったつもりで、あっさりと交際を認め事態をより一層深刻なものとする間抜けな彼氏の存在。以上二点からこの問題について真正面から批判をぶつけ難いように思う。
また矢口は公式HPで脱退理由としてモーニング娘。のリーダーとしての資格、アイドルとしての自分自身の責任を挙げているが、アイドルとしての責任云々はともかく、モーニング娘。のリーダーとしての資格とは何なのだろうか。これは常々抱いていた疑問とも結びつくので、この機会に『娘。ドキュメント』を軸に考えてみたいと思う。

娘。ドキュメントの重苦しさ

娘。ドキュメント』はメンバーが本音で語るとの宣伝通り、メンバーの生の声が見聞き出来て大変興味深い。だが反面、少々重苦しくもある。飯田圭織の卒業ドキュメントに至っては数週に渡り放映されている。最後のオリジナルメンバーである飯田の卒業を通じてモーニング娘。の軌跡を振り返り、視聴者現存メンバー共々、「モーニング娘。」というグループに対する思い入れを強化しようとする試みなのだろう。不条理な卒業が連続した時期に端を発するこの手の企画は年々過剰の一途を辿り、最近では少々行き過ぎなところまできている。

ASAYAN的なものへの凝り固まり

矢口は『ASAYAN』時代のグループ内競争を無批判に美化してみたり、リーダーであること先輩であることに異常なまでに責任感を抱く。確かに『ASAYAN』時代は互いをライバル視することによって活気付いてはいた。しかしその一方で信頼とは程遠いギスギスした間柄であったことを忘れてはいけない。得るものがあれば失うものがある。そこを考慮しなければ矢口発言は単なる無いものねだりでしかない。矢口の求めるものとは仲の良さを引き換えにしてまで手に入れる価値のあるものなのだろうか。僕にはそうは思えない。
どうにも矢口や四期の話を聞いていると、仲が良いこととライバルであることの二つを対立項目として捉えているようだが、何故身近に存在するω(ダブルユー)を見ようとしないのか。そこには信頼を土台にライバルを越えた次元で互いを高め合う関係性が構築されている。矢口たちの考え方では精々「後浦なつみ」や「ごまっとう」が関の山だ。1+1を2以上にすることは難しい。もっと柔軟なものの見方が必要のように思える。

ASAYAN娘。ドキュメントの類似性

そもそも『ASAYAN』自体が碌なものではない。過度に対立意識を煽るなどして出演者を極限へ追い込み、その姿を見世物としていた録でもない番組だった。出演者の精神状態よりも番組としての見栄えを優先していたように記憶している。
これについては『娘。ドキュメント』で放映された六期選考合宿の裏側と、当時放映された内容とを比較してみるといいだろう。本放送では六期候補の三人を今風の無感動・無気力で礼儀知らずの若者として映し出し、講師の面々と衝突していく様を緊迫感をもって描いていた。しかし今回明らかにされた六期選考合宿はどうだ。そこには夏先生に内なる情熱を伝えられず、自分の不甲斐なさに涙する亀井の姿があった。三人には上手く表現することが出来ないだけで、モーニング娘。になりたいという熱意も合宿に対する意気込みも確かにあったのだ。カメラは真実を捉えていたにもかかわらず、意図的にそれを隠蔽していた。つまりは番組演出の名目で、彼女達三人の印象を不当に貶めていたことになる。その上であの追い込みとは…。
そして恥知らずにも今頃真相を明らかにしたということは、そこに今回の番組演出の意図があると見るのが自然だろう。それは出演者を思い遣ってのことではなく、製作側の都合でしかない。リーダーだなんだと祭り上げられ、煽られるがままに不用意な発言を量産する矢口は今すぐ目を覚ました方がいい。

モーニング娘。という名の桎梏

メンバーに語りかけた言葉全てに意味があったのだと言う飯田(本当か?)。モーニング娘。を語る際、中澤からは持ち前の威勢の良さが消え、酷く抑制の利いた口調となる。矢口はご覧の通りの迷走ぶり。ここまで三人の言動を狂わすものとは何なのか。それはモーニング娘。の歴史であり、そこからくるリーダーという名の重圧ではないかと思う。
特に四期以上のメンバーに言えることなのだが、「歴史」「モーニング娘。魂」「進化」「ハングリー」「ライバル」、これらの美名に惑わされているように見える。以前は実質を伴うものだったかもしれないが、今では不条理な卒業や理不尽な番組作りに後付で意味を与えるものとしか思えない。声高に「ハングリー」だ「ライバル意識」だと連呼してみたところで、「モーニング娘。」からは競争意識を育み受け止める土壌が失われて久しく、本体での争いから溢れ出た者を救い上げていた各ユニットが休止状態ある現在、何処でそれを実践すればいいのだろう。かえってメンバーの戸惑いを招くだけではないのか。
飯田のオリジナルメンバーとしての重要性とリーダーとしての業績を称えれば卒業が正当化されるのだろうか。またテレビ側の要望に合わせた立ち振る舞いとそれに即した個性形成が「モーニング娘。魂」なのだろうか。メンバー側の視点から離れ感傷を排してみると、それは精神性とか志というよりも、望まぬ現実を受け入れ適応するための方便とも解釈出来る。現実問題としてモーニング娘。の充実と発展を主体的に考えるならば、良かった時代にすがることでもなく、断続的で形ばかりの進化論とやらに不満や迷いのはけ口を見出すことでもない。本業に適う形で活躍の場を広げることにあると僕は考える。矢口は下に向かって精神論を唱えるよりまず先に、上に向かって各ユニットの復活を進言すべきだった。

そんなわけで

矢口がリーダーの資格なしというなら、リーダーを降りればいいことだ。歴史あるモーニング娘。のメンバーとして相応しくないというなら、モーニング娘。を解散すればいい。そして同じメンバーで新しいグループを組み出直せばいい。枠でしかない「モーニング娘。」なるものに囚われて矢口がメンバーから外れる必要はないと思うのだが。

機動戦士ガンダムSEED DESTINY日記

〜あらすじ
地球連合・オーブ連合軍に向けて陽電子砲の発射態勢に入るミネルバ。その一撃がもたらす物的・人的損害を想像し人々が目を覆いかけた刹那、一陣の閃光が陽電子砲を貫く。大破するミネルバ艦首。逆光を突き破り姿を現したのは、なんとフリーダムガンダムだった…。

そんなこんなで、二十二話終盤から二十三話にかけてのフリーダムガンダムの活躍にテンションは上がりっぱなし。鼻血が出るかと思った。前作に引き続き、ここぞという場面でガンダムが空から舞い降りてくるベタな展開。大胆なズームを起点とした迫力あるMS描写と、動と静が巧みに入り混じる戦闘シークエンス、などなど。ロボットアニメの醍醐味がこれでもかというほど詰め込まれている。しかも本作の魅力はこれだけに留まらないとくる。まだ放映途中だが、そろそろ傑作の認定を与えてもいいと思う。場の雰囲気を壊しがちなCG使用も最近では抑えているように感じる(または効果的に用いるようになった)。そこも好印象。


さて二十二話終盤から二十三話にかけての表面的な内容は、キラの駆るフリーダムガンダム地球連合・オーブ連合軍とザフト軍(ミネルバ)に対して鬼神のごとき強さを発揮する、というものだった。しかしそれは、単に卓越したパイロット技量によるものではなく、心的状況の表れでもあると感じた。そう考える一例として、キラと同等の腕前を持つアスランではあるが、ユニウスセブン落としに際しては一般のパイロットを相手に不覚をとっている。その時のアスランは父である故パトリック・ザラへの執着の中にあった。キラには迷いが無い。だから強いのだ。
『DESTINY』という副題が示すように、今回のシリーズは運命に翻弄される登場人物たちの苦悩や葛藤が物語の根底にある。(その意味でキラは主要キャラクターではない)。放映開始当初から丹念に描かれ、積み重ねてきたカガリの苦悩。それが二十三話でついに頂点へと達した。一国の代表として力及ばずならがも最善を尽くしてきたつもりであった。しかしそれは近視眼的な事なかれ主義でしかなく、前代表である父とその側近たちが身を挺して守り続けてきたオーブの理念とはかけ離れたものだった。目先の苦難ばかりに気をとられ、その先に控える大いなる悲劇へと考えを巡らせることを怠れば、ゆくゆくは取り返しのつかない事態となる。父の言葉の真意を痛いほど実感したカガリは、声にならない叫びをあげるのだった。

「生首にきいてみろ」法月綸太郎 追記

ネットを巡回して色々と見えてきた。何故この作品が「このミス」で第一位をとるほど高く評価されているのか、何故わざわざあのような主人公に自らの名前を与えているのか。
まず評価について。本作はハードボイルド界の巨匠であるロス・マクドナルドの作風を取り込んでいるのだそうだ。もちろん僕はロス・マクドナルドを読んだことがない。その指摘を信じるとすれば、作者は一部の読者へサインを送っていたことになるのだろう。自分は本格ミステリについて深い造詣を持っていますよ、本格ミステリ的な手法を重んじていますよ、と。この作者はロス・マクドナルドをどのように解釈し、どのように作品へと練り込んでいくのか。本格ファンであることを刺激され、作品を読み解く新たな視点を与えられた一部の読者が、物語の完成度を超えたところに本作の魅力を感じたとしても何の不思議はない。
次に主人公の名前について。「法月綸太郎」とは島田荘司が与えたペンネームだそうだ。島田に見出された法月が、主人公の名前にするほど「法月綸太郎」に対し誇りと愛着を感じていたとしても、これまた何の不思議はないと思う。それは、本格ミステリへの確固たる拘りを感じさせもする。
つまり本作は、本格ミステリファンのための本格ミステリといえる。本格ミステリについての素養を持ち合わせない読者は全く想定されていないことになる。身勝手といえば身勝手だが、こうしたことは往々にしてある。たとえば『めちゃイケ』で表現される「お笑い」も一部のマニアに向けたものであることが多いし、このサイトのハロプロについての文章なども、いわゆるモーヲタ以外には見向きすらされないと思う。受け手を絞り込むことによって、効果を最大限に発揮させようとする部類のものだ。(なんだか自己正当化するようで恐縮だが)それはそれでいいと思う。パロディが究極のお笑いであると僕が考える理由もそこにはある。
ただそれは仲間内に向けられたものであるため、閉鎖的で一般的ではないということは自覚すべきだと思う。ミステリというジャンルの間口を広げるには適さない。「このミス」が内輪で盛り上がることを目的とするのなら、それもいいだろう。それほど熱心なミステリファンではない僕は、来年から「このミス」を参考にすることを止める。ただそれだけの話だ。僕は面白い「ミステリ」を求めているのではなく、面白い「物語」を求めているのだから。

☆☆

お気に入りの作家、乙一にしてもそうなのだが、「ミステリ」とはその特有な制約によって、物語の完成度を犠牲とすることが多いように感じる。奥深い物語と精緻なトリック、二つの異物の融合はそれほど困難な作業なのだろう。ただ個人的な願望を言えば、物語を重視して欲しいと思う。半可通の意見でしかないのだが、本来的なミステリとは謎解きの側面が強いと感じる。極論すれば「謎解き」というパズルがまずあり、そこに物語がくっ付いているようなものだ。謎解きが主としてあるように感じる。しかし小説である以上は、物語が主としてあって欲しい。物語を壊すような謎解きを用いてまで「ミステリ」であることを僕は求めない。…しかしまあ、その困難への挑戦がミステリ作家としての自負であり、僕の発言がモチベーションを著しく下げる行為であることは理解しているのだけどね。

松浦の恋愛騒動

松浦の恋愛報道の裏側からは、ゴシップ誌との結託やそれに基づく都合のよいファン心理・大衆心理の誘導といった、あまり感心できない事情が読み取れるような気がして少々不愉快。「脱・アイドル化」を進めているこの時期に「恋愛報道」→「事務所の明確な否定なし」という流れはどう考えても出来過ぎている。仮にこの騒動が事務所主導の「脱・アイドル化」路線の奥の手(禁じ手)ではなかったとしても、ゴシップ記事が事務所側の思惑にここまで沿ってしまっては、これを偶然として見過ごすことは難しいだろう。
松浦の不注意からアイドルとして好ましくない実生活を暴露されたというのが真相であるなら、罪は軽い。アイドルとはいえ彼女も年頃の女の子。人並みに恋愛もしたいだろう。アイドルとしての節度をわきまえた上であるなら、それほど熱心な松浦ファンではない僕としては、無理をしてでも黙認したいと思う。しかし、これが昨今の松浦を取り巻く「脱・アイドル化」路線の一環として企てたものであるなら、ちょっと容認し難い。
松浦ほどの素質であれば、アイドルの垣根を越えて活躍することも可能かもしれない。実際、そうなりつつあるように見える。ただ納得いかないのは、どっちつかずの打算的なやり方で移行を狙っているように思えるところ。被害者としての体裁をとる今回の騒動もそうであるし、楽曲的にみても表面上はノリの良さを封印した大人びたバラードで「脱・アイドル」を演出しつつも、その実、歌詞では依然として惚れた腫れたの擬似恋愛路線を維持している。人気や売り上げをヘッジしているように僕には思われる。浜崎あゆみに象徴される歌姫への転身を狙っているのなら、歌詞も恋愛絡みから自意識絡みへと移行させるべきではないのか。そこから伺えるのは、明確な覚悟のみえない「あわよくば」の魂胆である。

☆☆

ここで思い至るのが物分りのよいハロプロファンの存在。フットサルやコントなどの本業を離れた活躍まで応援しているようだが、「何をするか」ではなく本人たちが抱く充実感や好悪感情に応援の主軸を置いてしまうと困ったことになるのでは。この恋愛騒動を例とすれば、松浦の幸せに立脚しなければならなくなる。更にこの先、アイドルからオートレーサーへと転身した元SMAP森且行のように、アイドルからフットサル選手への転職を希望する者が出たならどうするのか。今は突拍子のない話に聞こえるかもしれないが、ハロプロの低迷が続くようであればどうなるか分からない。僕は我が侭なので自分の首を絞めるような真似はしたくはない。アイドルはアイドルとしての大成を目指して欲しいと思っている。

蛇足

イメージ戦略と歌詞での擬似恋愛路線の矛盾は後藤真希にも当てはまる。躍動感に溢れ力強く自立したイメージを感じさせる後藤だが、歌詞に注意すればその殆どが恋人に依存する弱弱しい女性像を表現したものである。そこに限界がみえるような気がするが。

「生首に聞いてみろ」法月綸太郎

石膏像の首が切り取られ何者かによって盗まれる。彫刻家の川島伊作が病身を押して製作したもので、モデルは娘の江知佳。川島の回顧展を画策する宇佐見は事件を表沙汰にしたくない。不安を拭いきれない親族は、探偵・法月綸太郎に相談を持ち掛ける。


このミステリーがすごい!」(2005年国内編)第一位受賞作品。2002年の受賞作『半落ち』は、ミステリよりも人間ドラマに重きを置いた作品だった。一方で、本作品はミステリであることを強く意識していると感じる。「探偵」である主人公が時折り見せる「探偵らしい」振る舞いや、物語としての完成度よりも読者への謎かけ(と薀蓄披露)の優先と、それは作品の節々から伺うことが出来る。それが揺り戻しなのか、本来的なミステリの手法なのか、僕にはわからない。ただ決まり事を強要されているようですっきりとしない。
通読した感想として、ひとつの作品として練りきれていないと感じた。構想段階であれもこれもと欲張り、アイデアの取捨選択や筋立ての突き詰めを疎かにした挙句、なし崩し的に形を与えたという印象。当たり前のことだが、推理小説とはマッチポンプである。難攻不落であるかのようにでっち上げたトリックを、主人公である探偵や刑事にこれ見よがしに解かせてみせる。言ってしまえばそれだけのことだ。だからこそ、過程が重要であると考える。事件解決へと迫る糸口の提示の仕方とそれらの紡ぎ方、またそれに伴う物語展開と付随する人間ドラマの描き方、そこに作者の腕の見せ所がある。さて本作品はどうか。中盤でどう考えてもトンデモ解釈としか思えない宇佐美の口車に惑わされる綸太郎(後にトンデモ解釈に惑わされたとの開き直りあり)、終盤で事件の真相をその口で説明してしまう綸太郎と、一人相撲が目白押し。これでは推理小説というよりも相撲小説といった方が適切かもしれない。
主人公である綸太郎に魅力を感じない。父親は警視庁の警視で、その立場を利用して様々な恩恵を授かったり捜査の足を引っ張ったりする設定。つまりはストイックさとは無縁の坊ちゃん探偵なのだ。せめて警察関係者は兄弟や仲の良い友人とするなどして、そこに利害関係を持ち込むべきだと思う。これではまるで親子で繰り広げる探偵ごっこにしか見えないのでは、と余計な心配をしてしまう。そんな主人公が作者名と同名なのだから、そろそろ傾げた首が痛くなる。


毎年「このミス」の上位入賞作品は出来るだけ読むようにしている。自分の狭い読書範囲を何とか広げようと考えているのだが、残念ながら今年も広がらなかった。
貶してばかりいるが、本作は本作で需要はあるとは思う。問題は、なぜ本作を「このミス」の一位へと祭り上げてしまったのかということにある。褒め殺しか何かなのか。
子供の頃は読書嫌いだった。感想文を書けと押し付けられる本の殆どは、教養を身につけるため面白さが度外視されたものであったし、ベストセラーと呼ばれる本を手に取れば、本作のようなものだったように思う。余計なことばかりごちゃごちゃ書いていて肝心の辻褄が合っていない。子供心にそう感じて、本てつまらないなと思ったことを覚えている。ミステリに興味を持ち、はじめて手にした本が本作であった人が、僕のような思いを味わうことがなければよいが。

続・お笑いについて

僕が明石家さんま島田紳助の出演する番組をあまり観ない理由は、前回書いたように、笑いの中に全く笑えない要素を見つけてしまう回数が飛びぬけて多いから。お笑い番組を観て不愉快な気分にさせられたくはない。
例えば『踊る!さんま御殿』にて。話を振られ無理をしてまで期待に応えようとするゲスト。そこにノーと言えない日本人の姿を見るようで気分が冷める。もし同じ状況だったらと考え、確実に同じことをする自分に思い当たり気が遠くなる。僕に言わせれば、これは「お笑い」などではなく「ホラー」である。潜在的な恐怖をかき立てられるというか。
明石家さんま島田紳助が偉そうだとか傲慢であるとか、個人に還元されるような問題ではなく、これは構造上の問題。シチュエーションコメディでもないのに「世間体」や「上下関係」、「権力」といった世俗的で反笑い的要素が番組進行の中に組み込まれている。詰まるところテレビの論理である。夢が無い、なんてロマンティックなことは言わないが、個人的な考えとして「笑い」とは現実の地平と地続きであって欲しくはないと思っている。
取り巻きに囲まれ持ち上げられてばかりいると碌なことにならない。それは不幸なことだ。さんまに関して言えば、目上の存在である所ジョージや北野たけしなどと競演し、遠慮のない突っ込みを受けてこそ本来の持ち味が活きるような気がする。暴走する芸風を野放しでは効率の良い笑いは生まれない。先日、『恋のから騒ぎ』をちらと観たのだが、出演者たちのさんまバッシングが笑いに繋がっていて少し安心した。

相方の身の振り方について

アイドルが自己主張や知名度向上の手段として手を出すのならともかく、職業芸人が無為無策に駄目キャラに走る姿が最近よく目に付く。彼らは先輩芸人の生き様を一顧だにもしないのだろうか。
天才・松本人志の相方として日陰に落ちかけた浜田雅功が採った手段は、自らの突っ込みの過激化であった。先輩後輩の区別無く果敢に突っ込みまくり、ダウンタウンに突っ込みの浜田あり、と名を成すまでになったことは周知の事実だろう。余談になるが、図式的な見方をすればこの突っ込みの過激化とは反権威・反権力であった。なので、権威・権力側からの反発を受けてはじめて対立構図として綺麗に成り立つ。そこには爽快感さえ生まれる。しかし浜田の特異な風体が仇となり、いつ頃からか、本気で恐れ戦いた権威・権力側の人物がプライドを捨て、下手に出る場面が見られるようになった。そうなってしまうと、浜田の芸風はチンピラの恫喝以外の何ものにも見えなかった。強引にこじつければ、それは浜田が対立する相手側陣営にその身を移し変えはじめた兆候だったともいえる。どちらにしても、以降、過激な突っ込みは影を潜めていくことになる。

コンビの内情

ペナルティ、ドランクドラゴンカンニング品川庄司。以上が、それほど熱心ではないお笑いファンの目から見て、活躍や注目度に差が出始めていると感じるコンビ。ドランクドラゴン鈴木は本来の個性を活かす形で駄目キャラ扱いされているようだが、最近少々エスカレートしているように感じる。どこまで自分の芸として取り込んでいけるのか観察中。カンニング中島は見た目と言動、どちらをとっても日陰芸人としか思えない人物なのだが、不思議と卑屈さや影のある様子は見受けられず、意外と好印象。他のコンビは類型的な駄目な自分演出に流れているように感じる(庄司については後述)。
コンビ芸人の明暗を露骨なまでに世間へと示した画期的ユニット「くず」。ユニット全盛時、くずが活躍すればするほどに蛍原と平畠の精神的に追い込まれていく様は、見ていて切ないほどだった。当たり前のように蛍原と平畠は、自分自身の置かれた情けない状況を何とか笑いへと転化しようとするのだが…。現在の蛍原は悲壮と自暴自棄から抜け出し、よい味を出していると思う。面白いかどうかば別として、見ていて切なくはならない。

組織的に行われる救済企画

先日の『うたばん』は品川庄司の庄司が大塚愛に恋心を打ち明け、玉砕するという内容だったが、これは典型的な日陰芸人サルベージ企画だろう。ハロプロ関連においても同番組では飯田圭織保田圭をサルベージした実績がある。現在は小川麻琴をサルベージ対象と定めているようだ。
また『内村プロデュース』でのレッド吉田とふかわりょうの面白がり方にも同様の意図を感じる。あらためて書くまでなく、ふかわりょうはテレビ芸人への転向組である。

本当に笑える「笑い」とは

以前にも「笑い」とは差別の側面を持つと書いた。活躍する相方とは対照的に惨めで冴えない自分を演出し、笑いへと転化しようとする試みはまさにそれである。ここでとってつけたようにモーニング娘。の事例を持ち出すが、アイドルとして第一線に立てない自分を自虐する保田、常識を逸した突拍子のない発想をする幼稚な辻を面白がるという行為もそれである。感覚的であったり文脈から生まれる笑いはあるが、どこか引っかかりのある後ろめたさを覚えはしないか。個人的に重要視したい問題である。
以前、ラジオ『ヤングタウン』で自らが規定する笑いの枠組みに嵌めようとし、カントリー娘。りんねを幾度となく泣かした明石家さんま。他にも、笑いという絶対性を振りかざし様々な人物を泣かしているようだが、彼の中では「笑い」と「悲しみ」は矛盾なく同居しているのだろうか。一遍頭の中を覗いてみたい。

円満な関係であること、健全な笑い

僕がω(ダブルユー)を評価する理由に、二人の良好な関係がある。それは友人としての仲の良さといった単純なものではなく、互いをパートナーとして認めた延長線上に生じる信頼関係をも内包している。本業の不充実を補う形での楽しさだけに偏った自堕落な仲であっても、信頼に結びつかない充実であっても駄目だ。(だんだんと話を大げさにしていくが)内外、心技、双方兼ね備えていなければいけない。これまでのハロプロユニット、どれもが届き得なかった徳であるともいえる。しかしω(ダブルユー)からはその高みへの到達を感じさせる。(だから評判の高い『ロボキッス』よりも二人のパートナーシップを強く感じることのできる『あぁ いいな!』の方が好みだ)。
くりぃむしちゅーキャイーン、レギュラー、品川庄司。以上のコンビからは仲の良さが伺えてほのぼのする。自然と笑う準備が出来る。しかし多くのコンビは、露悪的にコンビ仲の悪さを喧伝して憚らない。同級生の目を気にして親と外を歩きたがらない反抗期の中学生を連想させる。それはそれである意味笑えはするのだが、それは彼らが望む形での「笑い」ではないだろう。


流行の毒舌に手を出してみたり、自暴自棄気味に(まさに)洒落にならない自虐へと走るのもいいが、それらが正道を外れたトリッキーなものであるとどれだけの芸人が理解しているのか。笑えない要素で「笑い」を組み立てる困難にあえて向かっているように思える。基本を疎かにした飛躍はどうにも危なげで見ていられない。
ある笑いが差別的であるとの非難を受け、中止に追い込まれることがしばしばある。芸人は視聴者側の不理解を嘆きがちだ。ある面においてそれは真実なのだろうが、では芸人側の不認識はなかったのだろうかといつも思う。

更新後期

軽い気持ちで書き始めたら長くなった。強引に纏めたところでもう帰る。さんま許すまじ!てところが伝わればそれでいい。長くなりすぎたので気が向いたら後で手直しする。(ネットカフェより)