コメントの補足として

ASAYAN』時代のように、新曲で少しでも有利な役回りを獲得するため、努力その他を拠りどころとした血で血を洗うメンバー間抗争があってもよいと僕は考えている。また一方で、前近代の身分制度のように、加入当初から期待のされ方に歴然たる差が存在していても仕方がないと考えている。ふたつともモーニング娘。という商品を高く売りつけるための手段と成り得るならば、という条件付きではあるが。
精神を消耗させてまで新曲パートの争奪戦に賭ける姿は観る者にドラマを感じさせるだろう。他方で、揺るぎのない可能性を感じさせる新人、または極端に要領の悪い新人が、周囲の期待に応えるべく成長していく姿も、これまた観る者にドラマを感じさせるだろう。こうあって欲しいというファンとしての勝手な願望はあるが、モーニング娘。の存続を考えた場合、そういった大義名分の前にある程度の妥協もときには必要であることくらい僕でも了解できる。モーニング娘。はそうして現在の地位を築き上げてきたのだから。
だが、これらは意図的に作り上げられたフィクションであり、起こるべくして起きたことではない。それを忘れてはいけない。『ASAYAN』的役割を持つ番組のない現在、メンバー同士の競い合いをドラマ化する場が存在しない。まして、少し前までモーニング娘。のセンターには石川が君臨していたのだから、競争原理による実力主義というフィクションを成立させるにはいまいち説得力に欠ける。そのような状況下で、『ASAYAN』時代のグループ内闘争を復活させても、あまり得るものはないのではないか。以前のように将来の展望と成り得ず、更に内輪だけで完結してしまっては、とてもじゃないが妥協の余地は見出せない。
実力と外見、双方を併せ持つ者だけを寄り選り、ハロプロの威力を示すこと。それが今回のシャッフルの目的のひとつだと仮定してみる。一見するとこれは、外へのアピールと内への発破かけを兼ね備えた合理的なやり方に思えるかもしれない。しかし、本当にそうか。競争と成長のドラマ、どちらの手順も踏まえず、つんくの鶴の一声によって勝者と敗者が選り分けられる。この酷薄なまでに独善的で不透明な乱暴さは、モーニング娘。の向上を図るという大義を理由に、小川を切り捨てるべきだとする過激論者にも繋がる、とても恐ろしい考え方であるように僕には思える。
劣等生のレッテルを強要され加入した紺野の例が示すように、またオリジナルモーニング娘。平家みちよとの争いに敗れた敗残兵の寄せ集めだったように、新メンバーの選抜基準が常にエース候補生の発掘にあったわけではない。時代によって売り出しコンセプトに変化があったとしても、モーニング娘。はいつでも多様なキャラクターを許容する懐の深さを持ち、またそれ自体、モーニング娘。モーニング娘。足らしめていた重要な要素であった。小川への批難は、彼女の自堕落な言動を考えればもっともなことだ。しかし、この批難はときに排除論にまで過激化する。そうなってしまうと、小川ひとりの問題では収まらなくなる。モーニング娘。の基本コンセプトを問い直す根源的な批判となるからだ。
小川を切り捨てることにより、モーニング娘。という商品を高く売りつけるための手段と成り得るならば、個人的に納得はいかなくとも、一考の余地はある。しかし、そうして不純物を取り除き、透度を高めた末にできあがるのは、「ごまっとう」であり「後浦なつみ」のように、非常に淡白な色合いを持つグループではないだろうか。そして、「ごまっとう」と「後浦なつみ」は商品として成功したと言えるのだろうか。この二つのグループが、個々のソロ活動を超えて成功を得たとは僕には思えない。だから、小川を切り捨てることは、一部の個人的な感情を満足させる以外、何のメリットもないと考えている。むしろモーニング娘。の特色を消し去る愚行なのではないか。
蛇足になるが、多くの小川排除論者の主張がひとつの論として成立していないのは、グループとしての成功論と個人的な願望との混同があるからだ。願望は僕にもある。だから、願望それ自体を述べることが悪いとしているわけではない。問題は、願望その他、ファンとしての体面や自尊心をモーニング娘。へ投影し肩代わりさせ、芸能界での成功を強要している点にある。こうなってしまえばもはやファンというより、支持団体や支援団体といった方がより適切であるように思うのだけど。


今回の厳選シャッフルについて、それが何を意味するのか、現時点で読み取ることはできない。単に「ごまっとう」の系譜に連なるその場限りのお祭りなのか、それとも、これから始まるモーニング娘。を含めたハロプロ全体の方向転換、大波乱の前触れなのか。
信頼に裏打ちされた仲のよさを好む僕としては、パフィーやケミストリーも、実は好きだ。それはどうでもいい話だったが、モーニング娘。在籍中メンバー間の縦横の繋がりに多大な貢献をした石川は、ただその一点だけでも肯定できる存在だ。そして数ヶ月か数年後か、後に石川の卒業を振り返ってみたとき、彼女の存在が代えがたいものだったと感じそうな予感がして、今回のシャッフルを快く受け入れることができないのだ。

無題

僕がはてなダイアリーに居座り続けているのは、ひとえにはてなアンテナとの親和性によるものだ。「ちょっとした更新」(以下ちょこっとKOUSHIN)という機能がある。それを使用することで、アンテナに反映させることなく日記の更新を行うことができる。この機能の利便性は計り知れない。
はてなの台頭により、誰もが自分のアンテナを持ち、巡回先の更新に即時に対応できる時代となった。しかしその代償として、文章の改竄はもとより、誤字脱字の修正すらこっそりと行うことができなくなった。気になるサイトの更新状況をあなたの代わりにまとめてチェックしてくれる便利ツールですの裏には、監視社会が潜んでいた。皆がどう思っているか知らないが、僕はこっそりと戦慄していた。何故か誤字脱字を生み出す才能に恵まれていたからだ。この魔の手から逃れるために、「ちょこっとKOUSHIN」の存在は手放せない。他の機能はどうでもいい。
久しぶりに更新してみたらアンテナ上がりまくりで、全然魔の手から逃れてなかった。「ちょこっとKOUSHIN」が意味を成してない。監視社会云々よりもはてなの裏切りに戦慄どころの騒ぎではない。しかし、僕はそんなことはおくびにも出さない。何故なら、アンテナの上がり下がりを気にする小さい人間と思われるのを気にする小さい人間だからだ。それに、アンテナの感度はその時々で差がある。上がるときは鬼のように上がるが、上がらないときはぴくりともしない。何故違いがあるのか、もちろん分からない。
ただひとつ分かっていることがある。「ちょこっとKOUSHIN」の使用後、コメントを書き込まれても何故かアンテナが反応するということだ。だから、コメントを書かれると二重に驚く。
主に人徳が不足しているため反対意見を書き込まれることが多く、それを受け反論めいた書き込みをしたりするのだが、後から読み返してみると全然駄目だ。駄目な理由は二つある。ひとつは、杜撰な内容には眼をつぶるとしても、反論のための整合性を意識しすぎ、普段の主張と食い違いが生じている。もうひとつは、コメントに「ちょこっとKOUSHIN」が適用されないため、文章の改竄はもとより、誤字脱字の修正すらこっそりと行うことができないのだ。
後者は内緒にしておきたいので、前者について。前回の更新のコメント部分、メンバー間競争を頑なに否定し石川のでしゃばりまでも嫌悪する、まるでたちの悪いニヒリストのような書き方をしてしまったが、それについて少々捕捉してみたい。

直球ユニット

先の矢口の脱退がモーニング娘。としての手続き上、正当なものであったのかどうか、またそれはメンバー間で納得いく処置であったのかどうか等々、これら細部についての解釈は様々ある。だがスキャンダルという(矢口の)不幸が彼女を脱退に追いやったとする根幹認識が共通の土台として存在するため、それらの議論は皆似たようなベクトルを持っていた。しかし、『やぐちひとり』での活動を踏まえて考えるとどうか。その土台すら疑わしくなってくる。
これまでハロプロが採ってきた戦略はとても分かり易いものばかりだった。たとえば、事務所一押しのメンバーと一般メンバーとのプロモーション格差は、一般メンバーを気遣いたくなるほど露骨なものであったし、またあるメンバーがモーニング娘。の活動とは別個にソロ活動を始めでもすれば、それは殆ど例外なく卒業を見据えたものであることを意味した。天上人つんくによる創作が変化球なので惑わされがちだが、末端で繰り広げられるプロモーションはまさに直球。それも思わず見逃し三振してしまうほど予想を超えて何の捻りもない直球であった。
やぐちひとり』という番組が裏付けることは何か。たとえスキャンダルが起きなくとも、矢口の卒業はそう遠くない将来に予定されていたということだ。とすれば、スキャンダルだけが「矢口のひとり立ち計画」の一環でなかったとはっきり断言することができるのだろうか。「脱・アイドル路線」を踏まえたとしか考えられない松浦スキャンダルの前例。そして現在、矢口はスキャンダルを契機に各バラエティ番組へ出演ラッシュをかけている。状況証拠は見事なまでに揃っているのだ。…以上は陰謀論の域を出ない単なる推論でしかなく、常識的に考えれば、真相はスキャンダルを逆手に取った顔売りということにでもなるのだろうか。とはいえ手段を選ばない直球プロモーションとしては決してあり得ない話ではないと思う。


シャッフルユニットの時期。ハロプロは直球プロモーションを用いることから、他に際立って少人数で構成されたユニットがあれば、それがメインであるとしてまず間違いはない。今回は『セクシーオトナジャン』『エレジーズ』『プリプリピンク』の三組。人数構成は順に三人、四人、四人。これだけを見ると、露骨なユニット間格差があるようには思えない。では、ついに人気偏重の贔屓主義から脱却し、各人の能力と頑張りだけを拠りどころとする実力主義への道が開いたのかといえば、決してそうではない。ベリーズ工房モーニング娘。だけで今回のシャッフルユニット三組、いずれにも選ばれなかった者が十名以上存在している。シャッフルに選抜されただけで既に贔屓なのだ。
要するに、無駄な頭数を切り捨てることによって三組とも直球に仕立てたわけだ。贔屓主義ここに極まりだが、参加だけさせて無責任に放ったらかすよりはよっぽどマシだとは思う。ハロプロの大所帯化により、飼い殺しの憂き目に遭うメンバーが続出していたことを考えれば、それ自体は認めることはできなくとも、建て前だけの平等を捨て去っただけでも前進と言える。フットサルやコントで辻褄を合わせるような偽善は見ていて悲しくなる。
またこれを悲観的に受け取れば、現在プッチモニをはじめとする各サブユニットが活動停止であることが物語るように、日のあたらない位置にいるメンバーの面倒を見る余裕がなくなったとの解釈もできる。日があたるもあたないも作り手側のさじ加減ひとつなので、全くもって無責任な話。ただ、ひとつ引っかかるのは『プリプリピンク』の存在。構成メンバーから推測するに、これはモーニング娘。在籍中、相対的に上へとあがりすぎた飯田に対する引き下げが主目的であるような気がする。
いずれにしても、売り上げ低迷、人気凋落と言われ放題、窮地に立たされたハロプロが何らかの方向転換を図ってきたことは間違いないだろう。松浦スキャンダル、矢口スキャンダルときて、今回の厳選シャッフル。その方向転換とは、ずばり手段を選ばない直球の連投であると見ているのだが、実際のところはどうなのだろうか。贔屓から漏れたメンバーへの処遇も含め、これからじっくりと見極めていきたいと思う。

石川梨華卒業に関するあれこれ

現在のモーニング娘。を取り巻く状況を鑑み、卒業公演の恒例行事化はしょうがないとしても、そこに無理やりにでも前向きな展望を見出すことが出来なければ救いがない。モーニング娘。を離れることとなった中澤裕子後藤真希に一抹の寂しさを感じはしても、当時、二人の先行きは揺るぎのないものに思えた。またそこから広がるモーニング娘。の更なる可能性に希望さえ感じた。あれから二年半、現時点であれこれ言うのは時期尚早かもしれないが、飯田圭織の卒業は明るい話題に繋げようがない。本人がどう思っているか分からないし、先も見えない。ないない尽くしで悲観に酔うしか対応の仕様がない。むしろ先程の矢口真里の脱退にこそ主体性が感じられるので、まだ批判や応援の入り込む余地がある。依然として真相は闇の中だが、一身上の都合によるいざこざでハロプロに残留出来たはじめての事例となるのであれば、何やら皮肉めいたものを感じなくもない。
では石川についてはどうか。石川の卒業には悲観も批判も応援も、何も必要ない。卒業後の活動はある程度保証されているのだから。それは、美勇伝というユニットをあてがわれていることからも伺える。アイドル属性しか持たない石川ではあるが、何とかやっていける体勢を取り繕っている。卒業後もアイドル歌手としての活動を軸足に置く以上、この補強は必要不可欠なのだろう。石川としては先輩として岡田と三好を支えていくつもりかもしれないが、二人の存在によって支えられているのはむしろ石川の方。石川のためのユニットなのだから当たり前で、わざわざお荷物を付けてやる理由はない。
二人一組で認知されていたω(ダブルユー)は例外として、ここまで後押しの利いた送り出しは前例がない。卒業後、申し訳程度の仕事を与えてお茶を濁すのではなく、芸能界で生き抜くための具体的方策がきちんと練られていると感じる。安倍なつみ後藤真希に続く、モーニング娘。の中核メンバーの卒業なのだから、送り手も慎重にならざるを得ないといったところか。
安倍なつみ後藤真希がそうであったように、石川梨華もまたモーニング娘。の一時代を担っていた。それは飯田圭織矢口真里のように内から支える大黒柱としてではなく、外部にモーニング娘。が何たるものかを示す看板として。石川はエースではなかったかもしれないが、モーニング娘。のスターではあった。そして、石川がスターでありながらエースではなかったことは、様々な軋轢をもたらした。


持たざる石川が特別扱いされはじめた時、モーニング娘。の新たな方向性も決定付けられた。ハロプロニュースやカントリー娘。での石川の育て方を見れば、石川がある時点から次期中核メンバーとして嘱望されていたことが分かる。修行先のカントリー娘。は彼女のスタイルに合うべく様変わりを強いられた。モーニング娘。は石川を顔として迎え入れ、それまで辛うじて残っていた歌手路線、つまり矢口の言うところの「実力主義」を失った。モーニング娘。のアイドル化である。石川を中核にモーニング娘。の再編を考えた場合、それ以外の選択肢はない。石川を中心としたアイドル集団となることはあらかじめ予定されていたと考えるべきだろう。


そんな石川ではあるが、四期としてモーニング娘。への加入当初は、辻加護の圧倒的な個性を前に吉澤と共に日陰へとまわることを余儀なくされた。前に出るタイプの個性を持たず、いまだ歌手路線の残る当時のモーニング娘。の中、歌手としての素質に恵まれない彼女にとっては当然の流れだった。そこから紆余曲折を経て前線への復帰を果たすわけだが、これは本人の頑張りよりも置かれた環境によるところが大きい。第一線での仕事は石川に自信と物事を成し遂げる達成感を与えた。しかしそれは、自分を表現出来る恵まれた環境があってこそ。もし活躍の場を得られなかったらとしたら…。あのまま見るに耐えない自虐を披露し続け、メンバーとの関係性に存在意義を見出すより他にないところまで追い込まれていたかもしれない。これは現在の小川の境遇とよく似ている。石川と小川との違いは詰まるところ、活躍の場を与えられたか否か、ただそれだけでしかない。もしモーニング娘。が変わらず歌手路線を採っていたなら、小川と石川の立場は逆だったかもしれない。逆は言い過ぎだとしても、グループ内での位置関係は大きく変わっていただろう。小川不遇の一因は石川にある。たとえそれが石川本人が望んだものではないとしても。


矢口の言う競争意識を高めるためにはどうすればいいのか。以上の事柄を踏まえて考えれば、おのずと答えは見えてくる。手っ取り早い方法は、元凶を取り除けばいい。石川を排除することだ。努力した者、実力のある者だけが認められる環境作りに取り組む。そのためには、石川の優遇は決して看過できない。口だけでなく、矢口に改革に向き合う断固とした意気込みがあるなら、まずそこからはじめるのが筋だろう。現行モーニング娘。のあり様と石川梨華個人とは密接な関係にある。一方を否定することは、もう一方を否定することに繋がるということでもある。
しかし、矢口から石川を非難する態度は全く感じられない。それどころか苦楽を共にしてきた仲間として、矢口の抱く理想像を共有する同志として、石川を認めきっている。微笑ましく思う反面で、事の経緯やその改革が意味することについてどこまで考えていたのか疑問に思う。ただ単に、後輩に訓示をぶちたかった矢口さんなのではないか。
いずれにしても、仲間を否定してまで理想を押し通すつもりは、矢口にはないのだろう。また本来ならば疎まれる立場にある非実力派でいいとこ取りの石川が、現在では下からは慕われ上からは認められる存在となっていることも見逃せない。ASAYAN時代の敵意むき出しの競い合いからは到底得ることのできない仲間意識、信頼関係がその背景としてあるのだと思わずにはいられない。


現在のハロプロからは、競争原理の生み出す攻撃性とは全く正反対のものを感じる。加入当時の年相応の背伸びが今では見る影もなく、まるで童心のような純真さを内に育む高橋愛後藤真希の例。以前の鋭さはどこへやら、物真似やギャグといった持ちネタが自らの可愛さを引き立てるもの以上ではなくなってしまった加護亜依の例。『二人ゴト』での里田談話からも伺えるように、大げさにいえば清らかで無垢なものを肯定する空気がハロプロにはあるのだろう。石川梨華を取り巻く人間関係からは他人を蹴落としてまでのし上がる荒々しさにはどうしても結びつかない。殺伐とした世の中でそこだけが掛け替えのない輝きを放っていると、そう思いたい。モーニング娘。の中心でハッピーと叫んだピンクのけもの。


さて石川梨華という中核が去った今、次にどのメンバーを軸としてモーニング娘。を組み立てていくのかが焦点となるだろう。そこがはっきりしなければ今後の方向性を占うことも出来ない。また過去への束縛のあるメンバーが殆ど姿を消し、結果としてグループの新陳代謝が促進された格好となったことも興味深い。五期は加入時期がグループとしての絶頂期だったことが災いし、皆で力を合わせて芸能界を昇り詰めたという連帯意識を共有できなかった。よって四期と五期の間には「先輩/後輩」の明確な線引きがあり、新メンバーが何人加入しようとも五期以下は狭義での「先輩」になることはないのだが、これはまた別の話。とにかく疎外意識としてのびのびとした振る舞いを妨げる足枷となっていた。目標であり目の上のたんこぶでもあった先輩が去ったことで、更なる活躍が期待できそうだ。六期に関しては、特に何も言うことは無い。六期はあらゆるしがらみから解放されている。グループ全体に思いを巡らすあまり肝心の足元がお留守になりがちだった先輩たちとは異なり、自分たちにとっての当面の課題が何であるのか認識出来ている。今後、モーニング娘。を実務の面から引っ張っていくのは六期たちだろう。

JR脱線事故について

JR脱線事故は本当に痛ましい出来事で、遺族の方々には心からお悔やみの意を表したい。JRは厳しく責任を問われるべきで、そのことについて異論はない。だがそれでも、現在テレビで永遠と垂れ流されているJRのお偉いさんへの一方的な責め立ては見るに耐えない。無抵抗の相手にヒステリックな暴言を浴びせ、中には興奮し胸倉をつかむ被害者家族の姿も見られた。そうされるだけのことをJRはしたのだし、取り乱す被害者家族の気持ちも分かる。しかし、外務大臣の中国への物言いではないが、動機があるからといって何をしても許されるということではないと思う。被害者だからといって加害者に対する権利が無制限に拡大される訳ではない。少なくとも暴力行為だけは抑えて欲しいと思う。
そして被害者家族ならまだしも、一部の記者のまるで世間の良識を代表しているかのような振舞いはどうしたものか。当事者ではないのだから、たとえ裁判により有罪を免れない相手であったとしても、最低限の礼はわきまえるべきではないのか。まして人権を重んじる観点から、加害者の権利尊重を主張することのあるマスコミがすべきことではない。粗探しの末、職員一人一人にまで事故責任を広げようする暴挙も看過することが出来ない。
最近フィクションの世界でよく見かける「アンチヒーロー」という題材が示すように、この現実社会で何かしらの組織に属する人間が勤務中、もしくはそれに類する状態にある場合、独自の判断で行動することはまずあり得ない。職務に穴を開ける可能性があるならなお更だ。社会規範に照らし合わせ明らかに正しいとされる行為でさえ、許可を得るため上司に伺いをたてる(または顔色を伺う)。組織全体としての価値観が優先される。構成員一人一人が勝手に動いていては組織として成り立たないからだ。個人が持つ正義感や社会通念に基づいて行動するということは、様々な責務をその身に引き受けるということでもある。当然そこには会社を解雇される覚悟も含まれる。自らの道徳観・信念を貫き、内部告発に踏み切った人間が、その後組織からどのような扱いを受けるのか。最もわかり易い例だと思う。
事故列車に偶然乗り合わせていたJR職員の非英雄的行動(=組織的行動)はそんなに批難されることなのだろうか。また事故当日、ボーリングに宴会と遊興にふけっていた平職員の全体意識の欠如はどこまで追及されるものなのだろうか。よほど自由で砕けた社風でない限り、平職員にとっては上司の意向が絶対で、逆らうことなど到底不可能と思える。つまり全責任は上の人間が取るべきで、というか、何かあった場合に責任を負うのが役職者の当然の務めであり、それは給料としても反映されているのではないか。平職員に上司と同等の責任を求めるのは酷であると感じる。会社の重大な失策によりマスコミに絶対悪として仕立てられ、事件と直接関係のないことまで批難を受け、平社員として所属する自分までもが過大な責任を問われてしまう。叩いて埃の出ない組織が一体どれだけあるのか。全国の平社員にとってこれは対岸の火事ではない。明日はわが身となりかねない。
被害者家族側の権利回復に尽力したいと考えるならば、公共の場で我を忘れて取り乱し、時には暴力行為に及んでしまうほど精神的に追い込まれた方々に歪んだ形で同調することではなく、むしろ勇気をもってたしなめることこそ必要なのではないかと思う。自分自身が百パーセント正しいと思う人間は、その絶対性によって歯止めを失いがちで、正義という名の暴走に陥り易いように思う。悲しみに暮れる人々を前にそんなことが言えるのかと問われたならば、僕は何も言うことが出来ない。ただマスコミが良識という虎の威を借り、その身を危険にさらすことなく加害者に批難を加え、感傷に偏った報道を垂れ流し続けることにはいい加減うんざりする。たとえそれが酷薄なものであってとしても、徹底した第三者目線の報道で事故の実態を明らかにし、場合によっては被害者遺族の行き過ぎを指摘することもマスコミの役割なのではないか。悲劇性ばかりを煽り立て、結果として被害者家族の印象を悪く伝えているとしか思えない報道のあり方には疑問を覚える。


社会的制裁と刑事罰・民事責任との兼ね合いと、(これは個人的な印象でしかなく統計的な裏付けがあるわけではないのだが)1999年の山口県母子殺害事件あたりから表面化しはじめた被害者(被害者遺族)の加害者への激情を隠そうとしない過激な言動など、事件を離れて考えさせられることは色々ある。しかしもし今回、僕のようにマスコミの偏重報道によって少なからずJRの置かれた立場に同情してしまう人がいるのだとするなら、人々の関心を事故の原因究明から安易な人情劇へと逸らしてしまったマスコミの責任もJR同様、厳しく追及されるべきだと思う。

言葉についてのあれこれ

言葉を題材とする教養バラエティが目に付くようになってきた。それは『タモリのジャポニカロゴス』とか樹木希林の『大希林』とか、『世界一受けたい授業』の金田一秀穂担当部分だったりするのだが、この他にも、クイズ番組などでも言葉についての出題が増えてきたように思う。
ちなみに僕が好んで観ている同種の番組に『気になることば(『お元気ですか日本列島』内)』と『トリビアの泉』がある。一方は、視聴者から寄せられた質問を元に毎回テーマをひとつに絞り、必要があれば歴史的経緯を参照しつつ、平易で分かり易く、かつ質の高い回答を導き出そうとする。また一方は、知識の探求は上辺をなぞる程度に抑え、検証VTRの全く必要性のない作り込みに全精力を傾けようとする。両極ではあるが、共に番組制作に向かうスタンスが明瞭なので気持ちがいい。
この二つに比べると他の番組は中途半端であると感じる。普段何気なく使用している言葉が実は誤用であるとか、場面に即した敬語の正しい用い方などを指摘するまではいいが、その後、誤用の由来であったり敬語の成立形態について深く掘り下げる訳でもなく、かといってバラエティ性を追求するでもなく、放ったらかしに近い。少なくとも僕には満足出来ないレベル。要するに意外性を強調するだけでどっちつかずなのだ。流行を追っているだけとも言える。知識欲を刺激する餌を目の前におあずけを食っているようでやきもきさせられる。
それにしても『トリビアの泉』のバラエティ志向は呆れるほど徹底している。たった数分のために海外ロケを敢行したりその道の第一人者をキャスティングしてみたり。そこまでして出来上がったVTRは実に馬鹿馬鹿しいとくる。ここまで突き抜けていると逆に清々しい気分になる。筒井康隆にも通じる大真面目にくだらないことに取り組むこの姿勢は、凡人には出来そうでなかなか出来ることではない。

機動戦士ガンダムSEED DESTINY 第28話

椿三十郎ばりの逆手抜刀術が決め手となるあたり、超エース級であるキラとアスラン両人の実力はほぼ互角であったと見るべきなのだろう。逆手抜きは時間にしてコンマ数秒の短縮でしかないが、達人同士の対決ではそれが命取りになると。
この対決が黒澤明監督『椿三十郎』からの引用なのだとして勝手に話を進めるが、今のところ性能的限界の見えないMSにとって、逆手抜きをしたくらいで基本性能の向上した新型には対抗することが出来るのか疑問に思う。新型の大振りパンチに旧型のジャブがスピード負けすることすらあり得る。あのシャアですら「モビルスーツの性能の違いが戦力の決定的差でないことを教えてやる」と大口を叩きながら性能の差を埋める手段として搦め手を用いたわけで、ビームサーベルによる真っ向勝負では幾らなんでも分が悪すぎる。
実力の伯仲する二人ならなおのこと。不利な条件が少しくらい重なろうとも最新型の機体に搭乗するアスランの方が旧型機体のキラよりも有利に思える。勝敗を分けたのはキラの言葉により無視出来ない大きさに膨れ上がったアスランの中の「迷い」であり、小手先のビームサーベルさばきではない。そして、アスランがキラによって破壊されたのはセイバーガンダムだけではない。戦いの中、アスランの動揺をもっと強調すべきだったのではないか。今更言うことではないが、何故旧型のフリーダムガンダムが他を圧倒するのか、その強さの理由が視聴者にいまひとつ伝わりきれていないような気がする。その上純粋な剣術の競い合いでないところに『椿三十郎』の引用では、派手な見た目に惑わされてその奥底にあるものが益々見えなくなる。
究極のMS戦闘技術をMS版マーシャルアーツに求めることについても、肉体的能力に限界があるからこそマーシャルアーツが有用なのであって、日々性能の進化するMSにとってはおまけ程度のものとしか思えない。超近代兵器にチャンバラをさせるこの手の感覚は、宇宙戦争の決着を無理やりチャンバラ対決に落とし込む『スターウォーズ』と同様、アナクロニズムに美学を見出そうとする倒錯的なアプローチなのだろう。格好はいいがどこかチグハグな印象を受ける。

佳境の深みへ

意味不明の力説はいい加減にして今週の内容。今回、各人が行動基盤とする立場や信念が対比的に強調され、対立に繋がる構図が生生しいまでに浮き彫りとなっていた。
反戦を訴え孤軍奮闘するも、危機を救った相手からも邪魔者扱いされるキラ。自らの責任を果たすために復隊するも、軍人に徹し切りきれないアスラン。生きるためのリアリズムを貫き、縁あるオーブ軍、トダカ一佐さえその手にかけるシン。職務に私情を持ち込まず、大義なき戦いと知りつつ国のために人柱となるトダカ一佐(とオーブ軍将校たち)。取り返しのつかない過ちを前に、ただ泣き叫ぶことしか出来ないカガリ。報われない英雄行動、責任に付随するしがらみ、生き残るために他人を殺す業の深さ、大局を見通した上で選択する自重、無力な自分への絶望と、これまでとは比べものにならないほど重く凄惨な内容。
新EDには前作で戦死したキャラクターの姿も。そこに深刻な雰囲気は微塵もなく、穏やかで満ち足りたイメージ。これまでとは打って変わり落ち着いた曲調のEDテーマ。それだけに本編の印象がより深く際立って感じられる。